『日本書紀』は九月甲子が朔の戊辰に八十梟帥と女坂・男坂・墨坂で対峙し、 嚴瓮の力を借りようとし、 冬十月癸巳が朔に 道臣が忍坂邑を襲撃し、十有一月癸亥が朔の己巳に八十梟帥・ 磯城彦・兄磯城軍を壊滅したとある。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀 』もほゞ同様で原文が長くなり、末尾に原文を付け加える。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故明將打其土雲之歌曰意佐加能意富牟(竿)盧夜尓比登佐波尓岐伊理袁理比登佐波尓伊理袁理登母美都美都斯久米能古賀久夫都々伊々斯都都伊母知
宇知弖斯夜麻牟美都美都斯久米能古良賀久夫都々伊々斯都々伊母知伊麻宇多婆余良斯如此歌而抜刀一時打殺也然後將撃登美毗古之時歌曰美都々々(美都)斯久米能古良賀阿波布尓波賀美良比登母登曽泥賀母登曽泥米都那藝弖宇知弖志夜麻牟又歌曰美都美都斯久米能古良賀加岐母登尓宇恵志波士加美久知比々久和礼波和須礼志宇知弖斯夜麻牟又歌曰加牟加是能伊勢能宇美能意斐志尓波比母登富呂布志多陀美能伊波比母登富理宇知弖志夜麻牟又撃兄師木弟師木之時御軍暫疲尓歌曰多々那米弖伊那佐能夜麻能許能麻用母伊由岐麻毛良比多多加閇婆和礼波夜恵奴志麻都登理宇上加比賀登母伊麻須氣尓許泥」、【それで、その土雲が打とうと聞こえるように歌った(略)。この様に歌って、刀を拔いて、一斉に撃ち殺した。そうして、登美毘古を撃とうと歌った(略)。また歌った(略)。また歌った(略)。また、兄師木と弟師木を撃った時、軍勢が少し疲れた。そこで歌った(略)。】と訳した。
九月甲子朔・十月癸巳朔・十有一月癸亥朔は天文学的朔の日干支の朝廷の記録で、『日本書紀』と『舊事本紀』はほゞ同様で『舊事本紀』が『日本書紀』を流用したと考えられる。
それに対して、『古事記』は 磯城彦が出現せず、味方のはずの弟磯城が討たれて、『古事記』は弟磯城と磯城彦が同一人物と理解し、さらに、『古事記』では弟猾が大活躍し、それに、道臣が加わっている。
すなわち、葛城神武の大和侵略は瀬戸内を支配する道臣と宇陀・吉野から磯城彦の末裔の尾張王朝を攻撃したと考えられ、葛城氏の母系の義父の珍彦・椎根津彦が『古事記』に登場する理由である。
八十梟帥は侵入者が八国の制覇をもくろみ、倒そうとする相手の八国の十の将軍の意味で、その中に磯城彦がいて、兄磯城が支配する磐余を火火出見の配下の剱根が得て、弟磯城は磯城を受け継いだと考えられる。
磯城彦は磯城縣の縣の制度が無い時期の王で、兄磯城が磯城縣の王の後継者の筆頭とはいえ、兄磯城がいる磐余が磯城縣を含むのではなく、磐余彦が磯城彦の配下であるのが当然で、磐余彦が天皇なら、磯城彦の地位は天皇以上となり、最高位の天皇に矛盾が生じ、神倭磐余彦がこれまで述べてきたように、三八朝廷の磐余の将軍の意味だと解る。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀 』は「九月甲子朔戊辰天孫陟彼㝹田高倉山之巔瞻望域中時國見兵上有八十梟帥矣又於女坂置女軍男坂置男軍墨坂置焃炭其女坂男坂墨坂之号由此而起也覆有兄磯城軍布滿於磐余邑賊虜(?所)據皆是要害之地故道路絕塞無處可通天孫惡之是夜自祈而(?寢)有天神訓之曰宜取天香山社中土以造天平瓫八十枚并造嚴瓫而敬祭天神地祇亦為嚴咒咀如此則虜自平伏矣天孫(?祇)承夢訓依以將行時弟猾又奏曰倭國磯城邑有磯城八十梟帥又髙尾張邑或本云髙城邑有赤鯛八十梟帥此類皆欲與天孫拒戰臣竊爲天孫憂之宜今當取天香山以造天平瓫而祭天社國社之神然後擊虜則易除也天孫既以夢辭為吉兆及聞弟猾之言蓋喜於懐乃使椎根津彦著弊衣服乃蓑笠爲老人貌又使弟猾被箕爲老嫗而敕之曰宜汝二人到天香山潛取其巔土而來覆基業成否當以汝為占努力勿慎欤是時虜兵滿路難以往還時椎津根彦乃称之曰我皇當能定此國者行路自通如不能者賊必防禦言訖徑去時群虜見二人大笑之曰大醜乎老父老嫗則相與闢道使行二人得至其山取土來歸於是天孫甚悅乃以此垣造作八十平瓫天乎技八十投嚴瓫而陟于丹生川上用祭天神地祇則於彼㝹田川之朝原譬如氷沫而有(?所)咒着矣天孫又因祈之日吾今當以八十平瓫無水造飴成則吾必不假鋒刃之威坐平天下乃造飴飴即自成又祈之曰吾當以嚴瓫沈于丹生之川如魚無大少悉醉而流譬猶柀棄之浮流者吾心能定此國如其不爾終無(?所)成乃沈瓫於川其口向下頂之魚皆浮出隨水噞喎時椎根津彦見而奏之天孫大喜乃拔取丹生川上五百箇真坂樹以祭諸神自此始有嚴瓫之置也時勅道臣命今以高皇産靈尊朕朕親作顯齋用汝為齋主授以嚴媛之號而名其(?所)置埴瓫為嚴瓫又火名爲嚴香來雷水名為嚴罔象女粮名為嚴稻魂女薪名為嚴山雷草名為嚴野推矣冬十月癸巳朔天孫嘗其嚴瓫粮勤兵而出先擊八十梟帥於國見丘破斬之是役也天孫志存必克乃為御謠之日伽牟伽華能伊齋能于彌能於費異之珥夜異波臂茋等倍屢之々多々(イ+裳)々(氵+弥)々之々阿々誤々豫々之多大(氵+弥)能異波比(?茂)等倍離于々智々在々之々夜々(?恭)々務々謡意以大石喩於其國見丘也既而餘黨猶繁其情難測乃顧敕道臣命汝宜帥大來目部作大室於忍坂邑盛設宴饗誘虜而取之道臣命於是奉密旨掘穴音於忍坂而選我猛卒與虜雜居陰期之曰酒酣之後吾則起歌汝等聞吾歌聲則一時判虜已而坐定酒行虜不知我之有陰謀任情徑醉時道臣命乃起而歌之日於佐箇(?廼)於明務露夜珥比荅瑳破而異離鳥利荅毛比荅瑳破而(?ノ+木+只)伊離鳥利荅毛(氵+弥)々都々志倶梅能因還餓勾驚都々伊異志都々伊毛智于智妄之夜莾務時我卒聞歌聲俱拔其頭推劔一時殺虜虜無覆噍一類者皇軍大悅仰天咲因歌日伊々莾々波々豫々阿々時夜場伊々莾々懐儴而々毛々阿々誤々豫々今來目部歌而後大哂是其緣也覆歌之日愛(氵+禰)詩鳥(田+比)儴利毛々那比荅破易倍(?廼)毛多牟伽毘毛勢儒此皆承密旨而歌之非敢自専者也時天孫曰戰勝而無驕者良將之行也今魁賊已滅而同惡者十數群其情不知如何久居一處無以制變乃從營於別處十一月癸亥朔己巳皇師大舉將以磯城彦矣先遣使者徵兄磯城兄磯城不承命更遣頭八咫烏召之時烏到其營而鳴之曰天神子召汝怡奘過怡奘過兄磯城忿之曰天厭神至而吾為慨僨時奈何烏鳥若此惡鳴耶乃彎弓射之鳥即避去次到弟磯城宅而鳴之曰天神子召汝怡奘陋怡奘陋時弟磯城然改容曰臣聞天厭神至旦夕畏懼善乎鳥汝鳴之若此者欤即作葉盤八枚盛食饗因以隨鳥詣到而告之曰吾兄々磯城聞天神子來則聚八十梟帥具兵甲將決戰可草圖之矣天孫乃會諸將問之曰今兄磯城果有逆賊之意召亦不來為奈何諸將曰兄磯城點賊也宜先遣弟磯城曉喻之并諸兄倉下弟倉下如遂不歸順然後舉兵臨之亦未曉之矣伋使弟磯城開示利害而兄磯城等猶守愚謀不肯承伏時椎根津彦計之曰今者宜先遣我女軍出自忍坂道虜見之盡銳而起吾則馳勁卒直損墨坂取㝹田川水以灌其炭火倏忽之間出其不意則破之必也天孫善其栄乃出女車以臨之虜謂大兵已至畢力相待先此皇師攻必取戰必勝而介冑之士不無疲弊故聊為御謠次慰將卒之心焉謡之日哆々奈梅互伊那瑳能椰摩能(?虚)能莾由毛易喩耆摩手羅毘多々介陪摩和例破椰隈怒之摩途等利宇介碎餓等茂伊莾輸開珥(?虚)祢果以男軍越墨坂從後夾擊之斬其梟帥兄磯城等也」とあり、概ね『日本書紀』と同様である。
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