『日本書紀』は神武天皇即位前期には「諱は彦火々出見の第四子、母は玉依姫、海士神の娘で 十五で太子、日向國吾田邑の吾平津媛を妃とし、手耳を生んだ」とある。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀』は「磐余彦命天孫彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊第四子母曰玉依姬命海童之小女也天孫生而明達意(?確)如矣年十有五立爲太子長而曰向國吾田邑吾平津媛為妃誕生手研耳命次研耳命乃年四十五歳謂兄及子等曰昔我天神高皇産靈尊大日孁尊舉此豐葦原瑞穗國而授我天祖彦火瓊々杵尊之時開天關披雲路駈仙蹕以戾止是時運屬鴻荒時鐘草昧故蒙以養正治此西偏皇祖皇考乃神乃聖積慶重暉多歷年序自天祖降跡以迄于今即百七十九萬二千四百七十餘歳也而遼遙之地獨未霑王澤遂使邑有君村有長各自分壃用相陵礫抑又聞於鹽土老翁曰東有美地青山四周其中亦有乘天磐船而飛降者余謂彼地必當足以恢弘大業光宅天下蓋六合之中心手厥飛降者是饒速日欤何不就而都乎諸皇子對曰理實灼然我亦恆以爲念宜早行之・・・」、【磐余彦は、天孫の彦波瀲武鸕鷀草葺不合の第四子である。母は玉依姫といい、海士神の下の娘である。天孫は、生まれながらに賢く、志が確かだった。十五歳で太子となり、成長すると、日向国の吾田邑の吾平津媛を妃とし、手研耳、次に研耳を生んだ。四十五歳になって、兄や子たちに「昔、天神の高皇産霊と大日孁が、この豊の葦原の瑞穂国を我が天祖の彦火瓊々杵に授けた。天の関(海の波)を押し分け、海路の霧を押し分け戻らず先駆けて車駕を走らせた。このとき、運に従い世は荒れ、暗いので、まだ明るさも十分ではなかった。その暗い中にありながら、正しく、西の片田舎を治めた。皇祖は思うに神で、聖だったので、ますますよろこび輝き、多くの年月を経た。天祖が降ってから、百七十九万二千四百七十余年(?日)になる。しかし、はるか遠い国では、まだ帝王の恵みが及ばず、邑村に長があって、土地に境を設けて相争っている。また塩土老翁に聞くと、『東のほうに良い土地があり、青々とした山が取りまいている。その中へ、天の磐船に乗ってとび降ってきた者がある』という。思うにその土地は、広く統治をおこない、天下を治めるのにふさわしいであろう。きっと六合の中心だろう。そのとび降った者は、饒速日という者だ。どうしてそこに行かずにおけるか。」と言っていた。諸皇子たちも「そのとおりです。私たちもそう思うところです。すみやかに実行しましょう」と答えた。】と訳した。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上』は「神武天皇彦波瀲武鸕鶿草不葺合尊第四皇子也諱神日本磐余彦天皇亦云彦火火出見尊即少年時号狭野尊也母曰玉依姬海童少女也天皇
生而明達意礭如也年十五立爲太子長而娶日向國吾田邑君平津媛爲妃生手研耳命也・・・」、【神武天皇は彦波瀲武鸕鷀草不葺合の第四子で諱は神日本磐余彦天皇、または彦火火出見という。年少のときは、狭野と呼ばれた。母は玉依姫といい、海士神の下の娘だ。天皇は、生まれながらに明晰で、しっかりしていた。十五歳で皇太子になった。成長して、日向国吾田邑の吾平津媛を妃に娶り、手研耳を生んだ。】と訳した。
『舊事本紀』は皇祖を神で聖と『山海經』の『海外南經』の「六合之閒・・・神靈所生・・・唯聖人能通其道」を前提に、皇祖は日本海南部の六合を本拠にして生まれた神であり聖人と主張して、自分たちは六合出身だと述べている。
しかも、現在、六合から瑞穂の国に来て、その国は西の片田舎だと、すなわち、『海外西經』の地、宗像から壱岐・対馬の西だと述べ、天祖、すなわち、『海内經』が示している天から降って、百七十九万二千四百七十余年、恐らく年ではなく日にちで5千年と考えられ、アカホヤからの日数で、アカホヤによって逃げて来たのではないだろうか。
そして、六合の西の片田舎から東へ向かおうとし、それが六合の中心、『海外南經』は『海外西經』の丈夫國宗像より東、『海外東經』の大人國丹波大国より西なのだから、前項で述べたように、中州が目的地で、饒速日も中州に降ったと証明した。
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