2022年1月5日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書12

  『日本書紀』は辛酉年正月庚辰が朔に、天皇が橿原宮で帝位に就いた。是歳を天皇の元年とし、正妃を皇后と尊んだ。皇子神八井・神渟名川耳を生んだ。道臣・大來目部に役割を与えた。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「辛酉為元年春正月庚辰朔都橿原宮肇即皇位尊正妃媛鞴五十鈴媛命立為皇后則大三輪大神女也宇摩志麻治命奉獻天瑞乃堅神楮以齋亦立今木亦五十櫛判繞於布都主劔大神崇齋殿内藏于十寶以侍近宿因號足尼其足尼之號従此而始矣天富命率諸忌部捧天璽劔奉於正安殿天種子命奉天神壽詞即神世古事類是也宇摩志麻治今(?)率内物部乃堅矛楯嚴增威儀也導臣命師來目部護衛宮門掌其開門矣並令四方之國以觀天位之貴亦俾率土之民以示朝廷之重者也于時皇子大夫率群官臣連伴造國造等元正朝賀禮拜也凡厥即位賀正御都践祚等事並發比時者矣復御従皇天二祖詔建樹神籬矣復所謂髙皇産霊神皇産霊魂留産霊生産霊足産霊大宮賣神事代主神御膳神命御巫齋祭矣復櫛磐門戶豊磐門戶神並命御門巫(?)奉齋矣復出嶋是大八州之靈今生嶋御巫齋禮矣復坐摩是大宮地之靈命坐摩御巫齋祭矣復天留命率齋部諸氏作種々神寶鏡玉矛楯木綿摩等也復櫛明玉命孫造新玉古語美保代玉是謂新諱(?祈祷)矣復天日鷲命孫造木綿及麻并織布矣古語云荒妙也復天宮命率天日鷲命分造肥饒地播殖穀麻矣復天宮命更求沃壤地分殖好麻木綿永奉麻大嘗會縁復天富命於安房地之大玉命社謂安房社是也復手置帆負命孫造矛竿命讃岐地求貢八百竿立縁也復天兒屋命孫天種子命解(?)天罪國罪主事也復日臣命率來目部衛護宮掌其開門矣復饒速日命兒宇摩志麻治帥内物部造備矛楯復天富命率諸齋部棒天璽鏡劔奉正安殿矣復懸瓊玉陳幣物而祭大殿次登宮門矣復天富命陳幣祝詞(?+)祀皇天偏秩群望以荅神祇之恩矣復中臣齋部二氏俱掌祠祀之儀者矣復命猨女君氏供神樂矣自餘諸氏各有其軄矣復當斯之時帝之與神其際未遠同殿共床以此爲恒故神物宮物亦未分別矣復宮内立藏號曰齋藏令齋部氏永任其軄矣」、【辛酉を元年とし、春正月庚辰が朔の日に、橿原宮で、はじめて皇位に就いた。尊んで、正妃の媛蹈鞴五十鈴媛を皇后とし、大三輪の大神の娘だ。宇摩志麻治は天の瑞宝を献上し、神木の楮をたてて祀った。また、今木を立て、五十櫛を布都主剣のまわりに刺し巡らせて、大神を祭殿内で十種の瑞宝を供えて崇めた。そのような近侍となったため、足尼といわれた。足尼の号は、ここから始まった。天富は、諸々の忌部を率いて天の璽と剣を正安殿に捧げた。天種子は、天神の寿詞を奏上した。この内容は、神代の古事のようなものである。宇摩志麻治は内物部を率いて、矛・盾をたてて増々いかめしくした。道臣は来目部を指導して、宮門の護衛して、開閉した。それから、四方の国に天位の貴さを見せ、土地の民を従わせて、朝廷の大切な中心と示した。それで皇子と大夫は、役人・臣・連・伴造・国造達を率いて、元日の年始の礼で拝んだ。即位・賀正・都の践祚などの儀式は、みなこのときに起こった。また、二柱の祖神の詔勅で、神座の垣を建てた。(以下略:下の役割を決めた)」と訳した。

辛酉年正月庚辰朔は天文学的朔の日干支で、この日干支は現代の2001年までの1月1日に一度も現れなかった特異日、間違えようがない日であった。

門番の日臣以外は『日本書紀』に現れず、宇摩志麻治が足尼、すなわち、王が祀る神の宮殿の基礎の根を管理する人物、すなわち、王が神で、その言葉を皆に伝える役割が足尼で、後に、神の伝言者こそ王ということで、王を宿祢と呼んだと考えられ、安寧天皇の皇后の「大間宿禰女糸井媛」と記述され、大間宿禰が最初と考えられ、譯語田宮は「海部王家地與絲井王家地」、「尾張大海媛一云大海宿禰女」と記述されることから、尾張邑の王がこの説話のモデルと考えられる。

物部氏の宿祢は崇神朝の大水口宿禰が初出で、『舊事本紀』で孝安朝に「三見宿祢・・・宿祢奉齋大神其宿祢者始起此時」矛盾があり、実際は尾張邑の王が最初で、孝昭朝に建諸隅が「葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫生一男」と葛󠄀木の宿禰を受け継ぎ、葛城氏は「倭足彦」・「大倭根古」と天皇になったが、姻戚の物部氏、尾張氏の皇位を奪還が『舊事本紀』のこの年の説話である。

神武即位に既に「臣・連・伴造・国造」が存在し、地盤のない神武が地元の姫の皇后に従う「臣・連・伴造・国造」の前に君臨したことを示し、皇后の家系が既に「臣・連・伴造・国造」を割り当てた王朝だったことを示している。

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