2022年1月19日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』綏靖天皇類書1

  『日本書紀』は概略「神渟名川耳天皇は、神日本磐余彦天皇第三子、母が媛蹈鞴五十鈴媛で四十八歳の時、神日本磐余彦天皇が崩じ、庶兄の手研耳が長く朝機を歴、親政を行っていた。神八井耳と二人で陰謀を立て手研耳を殺害したが、八井耳が怖気づいて殺害できず皇位を弟に譲り、八井耳が神事を受け持ち多臣の始祖となった。」とある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「綏靖天皇神日本大磐余彦天皇第三子諱神渟名川耳天皇諡日綏靖天皇母日媛鞴五十鈴媛命事代主神大女也天皇風姿岐(?)少有雄拔之氣及壯容貌魁偉武藝過人而志尚沈默至四十八歳神日本磐余彦天皇崩神渟名川耳尊孝性純深悲慕無已持留心於變葬之事焉其庶兄手研耳命行年巳長久歷朝機故亦委事而親之然其王立摻厝旅本乖仁義以諒闇之際威福自由苞藏禍心圖害二弟子時也太歳己卯冬十一月神渟名川耳尊與兄神八井耳命陰知其志而善防之至於山陵事畢乃使弓部稚彦造弓倭鍛部天津真浦造真鹿鏃矢部作箭及弓矢既成神渟名川耳尊欲以射殺手研耳命會有手研耳命於片丘大寄中獨臥于大床時渟名川耳尊謂神八井耳命日今適其時色夫言貴密事冝填故我之陰謀本無預者今日之事唯吾與尓自行之耳吾當先明賞戶尓其射之因相隨進入渟名川耳尊突開其戶神八井耳命則手腳戰慄不能放矢時渟名川耳尊掣取其兄(?)持弓矢而射手研耳命一發中胸二發中背遂殺之於是神八井耳命懣默自服讓於渟名川耳尊曰吾是乃兄而懦弱不能致果汝持挺神武自誅元惡冝哉乎汝之光臨天位以來皇祖之業吾當為汝輔之奉典神祇者即多臣始祖也」、【綏靖天皇神日本大磐余彦の第三子で、諱は神渟名川耳。謚を綏靖天皇という。母は媛蹈鞴五十鈴媛で、事代主の上の娘だ。天皇は、風采が整い、賢く、幼いころから気性が雄々しく、成長して容貌がすぐれて堂々としていた。武芸はすぐれ、志を秘めていた。四十八歳に、神日本大磐余彦が崩じた。神渟名川耳は、親をとても大切にして、深く悲しみ慕い、特に葬儀に心を配った。腹違いの兄の手研耳は、年長で朝政に就いて、政事を任せられて、親の様に、葬儀を進めたが、仁義に背いて、服喪の間に、思いのままに悪事を企み、二人の弟を殺そうと考えた。太歳己卯冬十一月に神渟名川耳は、兄の神八井耳と、陰謀をひそかに知り、よく防いで、山陵を造り終わると、弓部雅彦に弓を作らせ、倭鍛部の天津真浦に鹿を射る鏃を作らせ、矢部に箭を作らせ、弓矢が出来上がったので、神渟名川耳は、手研耳を射殺そうとした。手研耳が、片丘の大殿でひとりふせっていたとき、渟名川耳は神八井耳に「今こそ好機だ。密事はひそかにするべきだだから、私の陰謀も誰も知らない。今日のことは私とお前だけでやろう。私がまず家の戸を開けるから、お前はすぐに射なさい」と言った。それで、二人は一緒に進入した。渟名川耳尊が戸を突き開け、神八井耳は、手足が震えおののいて、矢を射れなかったので神渟名川耳は、兄の持っていた弓矢を奪い取って、手研耳を射て、一発は胸に命中して、二発めを背中にあて、殺した。それで神八井耳は、押し黙って服従し、その後、渟名川耳尊に「私は兄だが、意気地なしで能無しで成果が無かったが、お前は武徳が抜きんでていて、自分の手で元凶を誅した。お前が天位に即いて、これからは皇祖の業を受けつぎ、私はお前の助けとなって、神を祀ろう」と譲った。これが多臣の始祖である。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故天皇崩後其庶兄當藝志美々命娶其嫡(適)后伊須氣余理比賣之時將殺其三弟而謀之間其御祖伊須氣余理比賣患苦而以歌令知其御子等歌曰佐韋賀波用久毛多知和多理宇泥備夜麻許能波佐夜藝奴加是布加牟登須又歌曰宇泥備夜麻比流波久毛登韋由布佐礼婆加是布加牟登曽許能波佐夜牙流於是其御子聞知而驚乃爲將殺當藝志美々之時神沼河耳命曰(白)其兄神八井耳命那泥汝命持兵入而殺當藝志美美故持兵入以將殺之時手足和那々岐弖不得殺故示(尓)其弟神沼河耳命乞取其兄所持之兵入殺當藝志美々故亦稱其御名謂建沼河耳命尓神八井耳命譲弟建沼河耳命曰吾者不能殺仇汝命既得殺仇故吾雖兄不宜爲上是以汝命爲上治天下僕者扶汝命爲忌人而仕奉也故其日子八井命者(茨田連手嶋連之祖)神八井耳命者(意富臣小子部連坂合部連火君大分君阿蘇君筑紫三家連雀部臣雀部造小長谷造都祁直伊余國造科野國造道奥石城國造常道仲國造長狭國造伊勢舩木直尾張丹羽(波)臣嶋田臣等之祖也)神沼河耳命者治天下也凡此神倭伊波礼毗古天皇御年壱佰参拾漆歳御陵在畝火山之北方白檮尾上也神沼」、【それで、天皇が崩じた後、その庶兄の當藝志美美が、その嫡后の伊須氣余理比賣を娶った時、その三柱の弟を殺そうと謀っている間に、その親の伊須氣余理比賣が、悩み苦しんで、歌(略)でその子達に知らせた。また歌った(略)。そこでその子が聞いて知って驚いて、當藝志美美を殺そうとして、神沼河耳は、兄の神八井耳に「さあ、武器で當藝志美美を殺そう。」と言った。それで、兵で殺そうとした時、手足がふるえて、殺せなかった。それでその弟の神沼河耳が、その兄が持ている武器を受け取って、入って當藝志美美を殺した。それでその名を稱えて、建沼河耳という。そこで神八井耳は、弟の建沼河耳に譲って「私は仇を殺せなかった。お前は仇を殺せた。だから、私は兄といっても上に立てない。それでお前が上となって、天の下を治めなさい。私はお前を扶けて神を祀って仕える。」と言った。それで、日子八井は、茨田連、手島連の祖だ。神八井耳は、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧の石城國造、常道の仲國造、長狹國造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣の祖だ。神沼河耳は、天の下を治めた。神倭伊波禮毘古天皇の年は、壹佰參拾漆歳。陵は畝火山の北の白梼の尾の上に在る。】と訳した。

古代の皇位継承の様子がよく理解できる説話で、よそ者の王が土地の皇位継承者の姫を娶ることで皇位を継承し、王の長男と雖も皇位継承が出来ず、皇位継承者の姫を前王死後に受け継がないと、皇位継承で国が安定せず、皇太子も前王が皇位に就いた時に自動的に決まることを示している。

そして、前王の生前に実質王権を行使するのが皇太子で、皇太子は13才以上でなければ皇太子に就任できず、弟が皇太子になり、弟は既に違う地域の姫が住む首都以外に住んで、弟が皇位を継承する時には、首都が変わることになる。

この説話の綏靖天皇は恐らく神八井耳で三八国の耳(三国王)の意味で、『古事記』の祖と記述される土地を支配下にした事を意味し、事代主の兄弟に稲羽八上姫の子の御井がいて、これは、三井耳を表し、その三井神は、 意富臣が大臣・大国王で、その他の君・国造の国々が支配下となった事を示し、葛城氏は手耳を殺害した褒賞に三国朝廷の王に加えられて、葛城王朝の右腕に近い地位を得て、神八井耳が葛城を首都にしたと考えられる。

天皇が天神(あま国かみ・倭国神)の意味・耳は三国神(み国かみ)の意味で、『日本書紀』は神話の天神と歴史時代の天神を字面で振り分け、『三国志』も「韓・・・諸國邑各以一人主祭天神號為“天君”」と天神を天君(王)と記述し、日本語では天王は「天岐神(あまきみ)」で、仲哀天皇九年に「東有神國謂日本亦有聖王謂天皇」と新羅王が述べているが、これは、新羅王が東に「み」国が有り「みや」と言い、「ひじり」の「岐神(きみ)」がいて「あまみ(天神)」というように述べ、平郡氏が神・あま神を君や天皇と書き換えたと考えられる。

『三国志』は三韓の言葉が「有似秦語故或名之為秦韓」と中国の秦の言葉に似ているから秦韓と呼んでいる、と記述するが、元々秦韓は辰韓で、北方民族の秦はまだ建国されておらず、秦語は中国語で秦語とは言わず、朝鮮語は日本語と同じウラルアルタイ語で、『古事記』や『日本書紀』が朝鮮語で読めると言われており、すなわち、『三国志』の時代には日本に秦があり、以前は辰と呼ばれていたことを示している。


0 件のコメント:

コメントを投稿