2022年1月24日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』安寧天皇類書1

  『日本書紀』は概略「磯城津彦玉手看天皇は、五十鈴依媛で事代主の娘。神渟名川耳の二十五年に皇太子となり、二十一歳だった。三十三年の七月の癸亥が朔の乙丑に、即位した。元年冬十月丙戌が朔の丙申に、神渟名川耳を倭の桃花鳥田丘上陵に葬り、皇后を皇太后と呼んだ。二年に片鹽浮孔宮を都とし。三年の春正月戊寅が朔の壬午に、渟名底仲媛または渟名襲媛を皇后にした。一書に、磯城縣主葉江の娘川津媛一書に大間宿禰の娘糸井媛といふ。先に、后は、二皇子を生んで第一をば息石耳、第二を大日本彦耜友という。あるは、三皇子を生む。第一を常津彦某兄、第二を大日本彦耜友天皇、第三をば磯城津彦。十一年春正月壬戌が朔に、大日本彦耜友を皇太子にした。弟の磯城津彦は、猪使連の始祖だ。三十八年の冬十二月の庚戌が朔の乙卯に、天皇が崩じ五十七歳だった。」とある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「安寧天皇神渟名川耳天皇太子磯城津彦玉手看尊母日五十鈴媛命事代主神之少女也天皇二十五年立為皇太子年二十一三十三年神淳名川耳天皇崩元年癸丑太子尊即天皇位尊皇后曰皇太后二年遷都片塩謂浮穴宮三年春正月以淳名底中媛命立為皇后誕生三皇子即息石耳命次日本彦耜友尊磯城津彦命也四年夏四月以出雲色命為中食國政大夫復以大弥命為侍臣並宇摩志麻治命之孫也十一年春正月以日本彦耜友皇子立為皇太子三十八年十二月天皇崩明年八月葬於畝傍山南御陰井上陵誕生皇子三柱兄息石耳命亦云常津彦無後次大日本彦耜友尊次磯城津彦命豬使連等祖新田部等祖次手研彦奇友背命父努別等祖」、【安寧天皇は神渟名川耳天皇の皇太子で、磯城津彦玉手看は、母を五十鈴依媛と言い事代主の下の娘だ。天皇の二十五年、皇太子になり年は二十一歳だった。三十三年、神渟名川耳は崩じた。治世元年癸丑に、太子は天皇に即位し。先の皇后を皇太后とした。二年、都を片塩浮穴宮に遷した。三年の春正月、渟名底中媛を皇后とし、三人の皇子を生んだ。息石耳、次に日本彦耜友、次に磯城津彦だ。四年の夏四月、出雲色を政大夫とした。また、大祢を侍臣とした。二人は宇摩志麻治命の孫だ。十一年の春正月に、日本彦耜友皇子皇太子とした。三十八年の十二月、天皇は崩じ翌年八月に、畝傍山の南の御陰井上陵に葬った。天皇に、皇子が三人いて長兄の息石耳またの名を常津彦といい子孫が無い。次に、日本彦耜友尊、次に、磯城津彦命で猪使連の祖、新田部の祖、次に、手研彦奇友背で父努別の祖だ。】と訳した。

元年冬十月丙戌朔、三年春正月戊寅朔、十一年春正月壬戌朔、卅八年冬十二月庚戌朔は天文学的朔の日干支で、立太子が大和政権の立太子とも見えてしまう。

しかし、立太子もおそらく倭国の立太子で、なぜなら、綏靖25年に21歳で皇太子になり、綏靖33年崩で29歳、翌年即位で30歳、死亡が安寧38年57歳と数が合わないことから別の王の立太子と解り、やはり、倭国の王の即位と考えるべきで、前188年の11年後の前178年に王都が変わった。

元年春二月己酉朔、九月丙子朔、二年春正月甲戌は天文学的朔の日干支で正しく、即位・皇太后即位・天皇崩で、神武天皇も即位・埋葬、綏靖天皇の即位、安寧天皇も皇太后即位・皇后即位同様なパターンである。

懿徳紀に母として記述される皇后は事代主の孫の鴨王すなわち建飯勝で、その義父は「天神玉( 魂 )葛󠄀野鴨縣主等祖」若しくは、「天櫛玉命鴨縣主等祖」すなわち鴨王・鴨彦の祖で、8代後の「大鴨積」が「磯城瑞籬朝御世賜賀茂君姓」と記述される。

すなわち、前代の天皇は建飯勝で、天日方奇日方・五十鈴依媛・八井耳から建飯勝・渟中底姫・息石耳・磯城彦・大倭彦へと皇位が遷り、三国の力が衰退して、八国の力が中心の政権になったため、神倭磐余彦→神渟名川耳→磯城津彦と役職名に神(三)国名が消え、前510年に八国(野洲国)の政権となったようで、三国朝廷は崇神朝で終り、賜姓されて天皇の臣下となり、君の姓は崇神朝の伊勢麻績君が最初で、大国の臣下の伊勢臣、もちろん、近江の伊勢臣が崇神朝配下の三国の王となったことを示して、前三国王も賀茂君と君を賜姓し、崇神朝の王と区別して『日本書記』に記述したようで、宿祢(足祢・たらしね)の表意文字が王なのだろうか。

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