2022年1月7日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書13

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「十一庚寅宇摩志麻治命奉齋殿内於天璽瑞寶奉爲帝后崇鎮御魂祈禱壽所(?)謂御魂祭自此而始矣凡厥天瑞謂宇摩志麻治命先考饒速日尊自天受來天璽瑞寶十種是矣(?)謂贏都鏡一邊都鏡一八握劔一生玉一足玉一死反玉一道反玉一蛇此礼一蜂此礼一品物此礼一是矣天神教導若有痛處者令茲十寶謂一二三四五六七八九十而布瑠部由良由良止布瑠部如此爲之者死人返生矣即是布瑠之言本矣(?)謂御鎮魂祭是其縁矣其鎮魂祭日者猨女君等率百歌女舉其言本而神樂歌儛尤是其縁者矣」、【十一月庚寅、宇摩志麻治は、殿内に天の璽と瑞宝を祀り、天皇と皇后のために魂を崇め鎮めて、幸福を祈った。鎮魂祭はここから始まった。天の瑞宝とは、宇摩志麻治命の父の饒速日が天神から授けられて来た天の璽・瑞宝十種だ。それは、瀛都鏡、辺都鏡、八握剣、生玉、足玉、死反玉、道反玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼のことだ。天神は「もし痛んだら、十の神を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせ。ゆらゆらとふるわせ。こうすれば、死人も生き返る」と教えた。これが「ふるの言葉」の起源で、鎮魂祭の由来だ。鎮魂祭で、猿女君が歌う女と「ふる」の言葉を唱え、神楽を歌い舞う由来だ。】と訳した。

この十一庚寅の日干支は『日本書紀』には記述されず、天璽瑞寶を持っている宇摩志麻治は天皇だと宣言しているのと同じだが、正確な日干支を記述できないということは、記述すると間違いが解ってしまうことを証明している。

すなわち、物部氏が天皇だった時期は鬱色謎・伊香色謎が皇后の時代・皇后が天皇を継承したので、この2人が皇后だった時代に天璽瑞寶を持ち、それを、崇神天皇が天璽瑞寶を受け継いだ紀元前97年11月丁丑朔庚寅の説話と考えられ、物部氏の神武天皇の崇神天皇狭野を史書として挿入する時に、神武天皇に当て嵌めたことが解る。

中国の史書も朝鮮の史書も朔日や晦日の日干支が極端に少なく、ほとんどが日蝕記事で、その日干支は天文学的な朔の日干支を記述して、中国の史書は『三国志』まで朔の日を晦日と記述したことは以前記述した。

そのなかで、一部朔日を朔と記述する日食があり、それは、朝鮮の史書も朔日と晦日が混在するが、一王朝に暦法が二制度というのは有り得ず、『三国志』以前の朔日が朔の制度が他王朝、それは日本の畿内政権の資料と考えるのが基本と考えられる。

なぜなら、『日本書紀』は朔の日干支が朔日の宝庫で、紀元前660頃から記述され、計算できるのなら、中国の史書も記述するはずなので、『日本書紀』も記録資料とわかり、日本は暦先進国と解る。

そして、『晋書』以降は朔日が朔になるが、晦日が朔の日干支が少数見受けられ、これは、『史記』や『尚書』で堯が暦を作るように命じた、『大荒南經』・『大荒東經』の「羲和」の国の暦先進国日本の九州地方の暦である可能性が高い。

中国史書や朝鮮史書には晦日と朔日の朔が正しい日干支に計算で行うのは不可能で、計算なら朔・晦日の一方のはずであり、同一時代に記述された「羲和」が其々異なる人物なら、同姓同名で異なる人物と記述しなければならない。


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