2022年1月10日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書14

 『日本書紀』は二年春二月甲辰が朔の乙巳に、天皇、論功行賞決め、道臣に宅地築坂邑居して、寵愛、大來目を來目邑、珍彦を倭國造、弟猾を猛田縣主、弟磯城黒速を磯城縣主、劒根を葛城國造、頭八咫烏に褒賞した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「二年春二月甲辰朔乙巳天皇定功行賞詔宇摩志麻治曰汝之勳功矣念惟大功也公之忠節焉覆惟至忠也因斯先授神靈之劔崇酬不世之勳今配股肱之職永傳不貳之美自今已後生々世々子々孫々八十聯綿必胤此軄永昌亀鏡則宇摩志麻治命天日方奇日方命倶拜申食國政大夫其申食國政大夫者今之大連亦云大臣也但天日方奇日方命者皇后之兄大神君祖也詔道臣命曰汝忠而且勇能有導功因先改日臣以為道臣加之師大來目督時元戎奉承密(?)傳能以諷歌倒語掃蕩妭氣如此功能(?)爲軍將流傳後裔其倒語用始發此時即大伴連等祖矣復道臣宅地居于築坂邑以優寵矣復使大來目居于畝傍山以西川邊之地今号來目邑即此其縁謂久米連祖也詔椎根津彦曰汝迎引皇舟表續香山之巔因譽爲倭國造其國造者自此而始矣此則大倭連等祖也詔弟磯城黒速曰汝有兄磯城逆賊之機首奏之勇因裔為磯城縣主矣詔頭八咫烏曰汝有道皇之功因入賞例其裔孫者葛野縣主部是也」、【二年春二月甲辰が朔の乙巳の日、天皇は論功行賞決め、宇摩志麻治命に「お前の勲功は大功と思う。お前の忠節は最高の忠義だと思う。だから、もう神霊の剣を授け類いない勲功を称え、報いた。いま、重職を、永く二つとない褒美と伝えなさい。今より、子々孫々代々、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とせよ」と詔勅した。それで、宇摩志麻治と天日方奇日方は共に食国の政大夫を拝命した。この政大夫は、今の大連、大臣のことだ。天日方奇日方は、皇后の兄で、大神君の祖だ。道臣に「お前は忠実で勇敢で、よく案内した功績がある。それで、さきの日臣を改めて、道臣の名を与えた。それに加えて、大来目と、将軍として敵を取り締まった時、密命で、よく歌い、合言葉で、打ち払うような功績があった。将軍にして、子孫に伝なさい」と詔勅した。道臣は、大伴連の祖だ。また、道臣に宅地を与え、築坂邑に住ませ、寵愛した。また、大来目を畝傍山の西の川辺に住ませた。大来目は久米連の先祖といわれる。椎根津彦に「お前は皇船を迎えて案内し、また、天香山で功績が有った。だから、倭国造とする」と詔勅した。大和の国造の始りで、大倭連の祖だ。弟磯城黒速に「お前は、逆賊の頭の兄磯城のくわだてを教える勇気があった。だから、子を磯城県主にする」と詔勅した。頭八咫烏「お前は皇軍を案内した功績がある。だから、褒美をやる」と詔勅した。頭八咫烏の子孫は、葛野県主だ。】と訳した。

二月甲辰朔は天文学的朔の日干支だが、前半の宇摩志麻治・天日方奇日方の功績は後付けで、『日本書紀』の大夫の初出が崇神天皇八年の「即宴竟之諸大夫等歌」と、前項の分析通りに物部氏の神武天皇として受け入れたのが崇神天皇だったことを示している。

すなわち、宇摩志麻治・天日方奇日方は家系の初代の名跡を継承した名前で、実際は建大尼・大田田祢古(大直根古)が、すなわち、大国(出雲ではない)の神殿を守る神と大国の王が大夫として仕えたと考えられる。

この方法は、『舊事本紀』だけでなく、『日本書紀』も同じで、珍彦の倭國造は大和ではなく八国造と考えられ、橿原を首都にして大和王など有り得ず、難波王朝の時に仁徳天皇前紀「倭直祖麻呂」→仁徳天皇六二年「遣倭直吾子篭令造船」と倭国造となる。

珍彦は『古事記』に「木國造祖宇豆比古」と記述され、珍彦の子孫が崇神朝に木国そして安国、朝廷が河内に移ると大倭国の王となったと述べている。

そして、国造も初出は景行天皇四年の「天皇聞美濃國造名神骨之女兄名兄遠子弟名弟達子」で、それ以前はこの説話だけで、後は祖が記述されて國造ではない。

『舊事本紀』でも系図に現れるのは孝昭天皇の時の「天戸目命之子此命紀伊國造智名曽妹中名草姫」が最初で、「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫」・「羸津世襲命亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」・「大海姫命亦名葛󠄀木髙名姫命此命礒城瑞籬宮御宇天皇」と葛城國造を表記せず、葛城國造は崇神天皇の時と考えられる。


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