2022年1月14日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』と海外文献 倭国1

  今回は、前回の立太子を掘り下げたい。

前回、神武天皇42年の立太子は倭奴国の初代王朝の42年目の春甲寅の日に王都が変わった、すなわち、実質は帝である太子が帝の宮殿と異なる自分が住んでいる宮殿、太子妃の父が支配する土地を首都にしたことを示す。

それは、『隋書』に「俀王以天為兄以日為弟天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟」と、この場合、兄が帝で弟が帝太子、帝が宗教的世界の天すなわち天子に対する天で天神や夜を司り、実際の政治は弟が担って、皇太子が実質の天皇や帝なのである。

『三国志』には明帝死亡時、「時年三十六。〈臣松之桉:魏武以建安九年八月定鄴文帝始納甄后明帝應以十年生計至此年正月整三十四年耳時改正朔以故年十二月爲今年正月可彊名三十五年不得三十六也」と景初三年正月丁亥は改正朔で景初2年12月晦日となったから36ではなく35死亡と述べた。

『日本書記』も『三國志』も景初三年が有ったとしていてたが、『晉書』に「泰始元年冬十二月行魏正朔」と265年12月に正朔と魏が正朔、朔が1日に改めたので、『三國志』まで日蝕が天文学的朔の日干支の晦だったのが、『晉書』では日蝕が晦日ではなく天文学的朔の日干支の朔日に発生し、266年泰始訪中以降、倭国の日干支が高千穂宮がある伊都の暦ではなく、中国の暦で畿内との年月日が対応可能になったと考えられる。

すなわち、伊都の畿内政権と対応した、畿内の朔と伊都の晦と対応した暦を利用していたのを、中国の晉朝以降の元号年と畿内の『二中歴』「年始五百六十九年内丗九年」と継体元年より569年前の前53年から有る元号と対応させることが出来た。

そのため、立太子の発生年の算定は、倭国→高千穂宮・伊都一大率→畿内の変換が、倭国→晉→畿内と変換して割り振り、「魏志云明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等詣郡求詣天子朝獻」より後、畿内朝廷と倭奴国の発生年が合致するようになったと考えられ、309年、「四十年春正月辛丑朔戊申・・・天皇常有立菟道稚郎子爲太子之情・・・甲子立菟道稚郎子爲嗣」の朔が天文学的朔の日干支で合致したと考えられる。

すなわち、倭奴国王都が西暦270年から西暦309年までの40年間続き、そこからさかのぼって、『日本書紀』が神功皇后69年を『三國志』の女王の為に付け加え、202年から69年目の270年が王朝変更の269年までが卑弥呼・台与の政権で247年「其八年・・・卑彌呼以死・・・更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與」と男王が同王朝内、恐らく男弟王の子が王になったが国が纏まらず、249年に男弟王の娘か義父の娘・従妹が即位したと考えられる。

すなわち、この249年が「成務四十八年春三月庚辰朔立甥足仲彦尊爲皇太子」のことで、成務前期の「大足彦天皇卌六年立爲太子年廿四」と景行「五十一年・・・秋八月己酉朔壬子立稚足彦尊爲皇太子」は卑弥呼が前の男王おそらく卑弥呼の男弟王の義父若しくは義姉の夫が5年間統治したところ纏まらず、義子男弟王の姉卑弥呼が王に即位したと考えられる。

すなわち、152年から50年統治した男王朝の後に202年卑弥呼が即位、垂仁「卅七年春正月戊寅朔立大足彦尊爲皇太子」と116年から36年間、崇神「四八年・・・夏四月戊申朔丙寅立活目尊爲皇太子」と69年から47年間、開化「廿八年春正月癸巳朔丁酉立御間城入彦尊爲皇太子」と42年から27年間、孝元「廿二年春正月己巳朔壬午立稚日本根子彦太日日尊爲皇太子」と21年から21年間、孝霊「卅六年春正月己亥朔立彦國牽尊爲皇太子」と前15年から35年間、孝安「七十六年春正月己巳朔癸酉立大日本根子彦太瓊尊爲皇太子」と前90年から75年間、孝昭「六十八年春正月丁亥朔庚子立日本足彦國押人尊皇太子」と前157年から67年間、懿徳「廿二年春二月丁未朔戊午立觀松彦香殖稻尊爲皇太子」と前178年から21年間、安寧「十一年春正月壬戌朔立大日本彦耜友尊爲皇太子」と前188年から10年間、綏靖「廿五年春正月壬午朔戊子立皇子磯城津彦玉手看尊爲皇太子」と前212年から24年間、神武「四十有二年春正月壬子朔甲寅立皇子神渟名川耳尊爲皇太子」と前253年から41年間王都が続いたことを示す。

次項に続く。 

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