2022年1月12日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書15

  『日本書紀』は四年春二月壬戌が朔の甲申に、海内事無く天神の郊祀を鳥見山に立てて、其地を上小野の榛原・下野原の榛原として皇祖天神を祭り、三十有一年夏四月乙酉が朔に、秋津州を日本國といい、四十有二年春正月壬子が朔の甲寅に、神渟名川耳を皇太子にし、七十有六年春三月甲午が朔の甲辰に、天皇崩、年一百二十七歳、明年秋九月乙卯が朔の丙寅に、畝傍山東北陵に葬った。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「四年春二月壬戌朔甲申天皇御正安殿詔曰我皇祖之靈矣自天降鑒光助朕躬今諸虜已平海内無事可以郊祀天神用大孝者矣乃立靈疇於鳥見山中其地号曰上小野榛原下山小野榛原用祭皇祖天神焉于時皇輿巡桒因登腋々上嗛間丘而廻望國状日妍哉平國獲矣雖内木綿之真迮國猶蜻蛉之臋吐焉由是始有秋津洲之号矣昔伊弉諾尊因此國日日本浦安細戈千足國磯輪上秀真國矣復大巳貴大神因之日玉壚内國及至矣復饒速日命乗天磐舩而翔行大虚也睨是郷而降之故因目之日虚空見日本國是欤四十有二年春正月壬子朔甲寅立皇子神)川耳尊為皇太子七十有六年春三月甲午朔甲辰天皇崩于橿原宮年一百二十七歳也明年秋九月乙卯朔丙寅葬畝傍山東北陵神武天皇子四處兒手研耳命無(?)次神八井耳命意保臣嶋田臣雀部造等祖次神渟井(?川)耳尊即天皇位次彦八井耳命茨田連等祖」、【四年の春二月壬戌(129日の日干支)が朔の甲申の日、天皇は正安殿で「皇祖の霊が、天から降り威光でわが身を助けた。いま、敵は既に平らげ、海内は何ごともない。それで、天神を祀ることで至孝としたい」と詔勅した。それで、霊廟を、鳥見の山中に立てて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原といい、皇祖の天神を祀った。天皇の巡幸で、腋上の嗛間丘に登り、国の状況見て「なんと穏やかな国を得たか。垂れ下がった木綿がすぐそこまで迫るが、それでも蜻蛉が交尾している」と言った。それで、秋津州の名がついた。昔、伊奘諾がこの国を「日本は、安らかな入り江で、細戈千で国を支配し、磯の周りの本当に優れた国だ」と言った。また、大己貴の大神は名づけて仰せられた。「玉垣に囲まれた国」また、饒速日は、天の磐船に乗って大空を飛びめぐって、ここを見て降ったので、名づけて「虚空から見た日本国」と言った。四十二年の春正月壬子が朔(書記は32年12月30日の日干支)の甲寅の日、皇子の神渟名川耳を皇太子とした。七十六年の春三月甲午が朔(2月29日の日干支)の甲辰の日、天皇は、橿原宮で崩じ、百二十七歳だった。翌年の秋九月乙卯が朔(正しい日干支)の丙寅の日、畝傍山の東北の陵に葬った。神武天皇に、皇子が4人、手研耳、後は無い。次に、神八井耳。意保臣、島田臣、雀部造の祖だ。次に、神渟名川耳は天皇に即位。次に、彦八井耳、茨田連の祖だ。】と訳した。

四年春二月壬戌朔は 1月29日晦日の日干支で晦日を朔と記述する九州の暦と考えられるが、これまでは晦日が30日の前提で変換されていたので、天文学的朔の日干支と違うことから、別の日付の記事を神武4年二月に挿入したとも考えられる。

紀元前28年垂仁天皇二年に「意富加羅國王之子・・・傳聞日本國有聖皇」と既に日本国が有り、安芸国の記事であることから、紀元前28より前、紀元前73年1月30日が壬戌晦日で合致しそうである。

立太子の四十有二年春正月壬子朔は12月30日晦日の九州の暦で、以降の立太子も多くが晦日が朔の九州の暦で、天智天皇の代まで継続しているので、私は倭国の立太子と考えていて、天皇は即位した時、システマチックに皇太子が決定され、立太子は元年若しくは2年に実施され、正統な太子が死亡しても継承順位が決まっていて立太子は発生しない。

朔が1日ズレる立太子の暦が倭国の暦とするのは、倭王の末裔の天智天皇の血筋の桓武天皇の時、『続日本紀』に即位元年「天応元年三月甲申詔曰朕枕席不安稍移晦朔雖加醫療未有効驗」、「天応元年十二月甲辰・・・頻移晦朔」と晦を朔に頻繁に取り換えたと記述し、「宝亀八年二月壬子壬子晦日有蝕之」と晦日に日食があったと記述するが、この日干支は天文学的に朔の日干支の3月1日で、この年は「六月辛巳朔」は6月2日、5月は29日が晦日と記述され九州の暦である。

光仁天皇も桓武天皇も倭王天智天皇の末裔のため、784年に「延暦三年十一月戊戌朔勅曰十一月朔旦冬至者是歴代之希遇而王者之休祥也」と『史記』の「始皇帝二十六年朝賀皆自十月朔孝武齊人公孫卿曰:「今年得寶鼎,其冬辛巳朔旦冬至・・・」と同じ知識の天皇で、九州の暦に父の病の治癒を願った。

また、綏靖天皇は神武天皇死後に手耳を暗殺して兄から皇位を譲られ、天皇死亡前に立太子するとしたら手耳若しくは彦八井のはずで、神武42年の事件なら、神武42年が綏靖元年である。

すなわち、古代は女系なので、立太子イコール、違う王朝が始まったことを意味し、首都が変わることになるので、王朝の途中の立太子は矛盾をきたし、天智天皇まで続く王朝は倭国の王朝のみで、倭国は燕や漢と交流が有り、漢の晦が朔の暦を受け入れ、さらに、高千穂王朝も「帝俊妻娥皇生此三身之國」と帝俊の影響で紀元前660年より以前から晦が朔の暦を使用していたと考えられるので、倭国の王の首都交代と理解した。

その為、立太子の日干支四十有二年春正月壬子朔は倭国の初代王が遷都した、すなわち、第2代の王が擁立されたのが、前王42年春の甲寅の日だったので、朝廷の初代橿原宮天皇の42年春の甲寅の日に割り当て、その記録が高千穂の宮の記録に付加されたと考えられる。

天皇崩御の七十有六年春三月甲午朔も2月29日晦日で別の日付を挿入し、正しい天文学的朔の日干支の埋葬に繋げたと思われ、天皇手耳を暗殺したため、朝廷の記録が無く、高千穂王朝の記録を流用したと考えられる。

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