2022年1月28日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』懿徳天皇類書

 『日本書紀』は概略「大日本彦耜友天皇は、磯城津彦玉手看天皇の第二子で母が事代主の孫鴨王の娘の渟名底仲媛で、十六歳で皇太子に、三十八年冬十二月に、磯城津彦玉手看天皇が崩じ元年春二月己酉が朔の壬子に、即位した。秋八月丙午が朔に、磯城津彦玉手看天皇を畝傍山南御陰井上陵に葬り、九月丙子が朔の乙丑に、皇后を皇太后とした。二年春正月甲戌が朔の戊寅に、輕地曲峽宮を都とした。二月癸卯が朔の癸丑に、天豐津媛を皇后とした。あるは、磯城縣主葉江の男弟猪手の娘泉媛。あるいは、磯城縣主太眞稚彦の娘飯日媛という。后は觀松彦香殖稻を生んだ。あるいは、天皇の伯父武石彦奇友背という。二十二年春二月丁未が朔の戊午に、十八歳の觀松彦香殖稻を皇太子にし、三十四年秋九月甲子が朔の辛未に、崩じた。」とある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「磯城津彦玉手看天皇太子日本彦耜友尊第二子母日后淳名底中媛命事代主神孫鴨王女也天皇十一年立爲皇太子年十六三十八年十二月天皇崩元年辛亥春正月己酉朔壬子太子尊即天皇位九月尊皇后曰皇太后二年春正月都迁輕地謂典峽宮二月天豐媛命立為皇后誕生觀松彦香殖稻命三月申食國政大夫出雲色命為大臣也二十二年春二月丁未朔戊午觀松彦香殖稻尊立為皇太子年十八三十四年秋九月天皇崩明年冬十月葬於畝傍山南纎紗溪上陵誕生皇太子觀松彦香殖稻尊次武彦奇友背命無後」、【磯城津彦玉手看天皇の太子の日本彦耜友は第二子で母は后の渟名底中媛で事代主の孫の鴨王の娘だ。前天皇十一年に皇太子になり、年は十六歳だった。三十八年十二月、天皇が崩じ元年辛亥年春正月己酉が朔の壬子に、皇太子は即位した。九月、皇后を皇太后とした。二年春正月、軽地曲峡宮に都を遷した。二月、天豊津媛を皇后とした。皇后は、観松彦香植稲を生んだ。三月、食国の政大夫だった出雲色を大臣にした。二十二年春二月丁未が朔の戊午に、観松彦香植稲皇太子とした。年は十八歳、三十四年秋九月、天皇は崩じた。翌年冬十月、畝傍山の南の繊沙渓上陵に葬った。天皇は、皇太子・観松彦香植稲尊を生んだ。次に、武彦奇友背で子は無い。】と訳した。

二年二月癸卯朔と廿二年二月丁未朔とのユリウス数差が7324で大小の月のペア59の除は124、残余が8で、これは248ヶ月の中、大の月が8ヶ月多いことを示し、暦を計算で作成する場合16ヶ月の中に大小の月のペアを当て嵌めると1回は大の月が続かなければならず、計算なら大の月が15回多くなり、8回多いだけというのは計算が合わない。

卅四年九月甲子朔と廿二年二月丁未朔とのユリウス数差も其々差が4577、除77、残余34、155ヶ月・大の月が9回多いはずが5回多いだけで計算が合わず、計算で偶然半数以上が正しく、それ以外が全く的外れになることは理に適わない。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「大倭日子鋤友命坐軽之境崗宮治天下也此天皇娶師木縣主之祖賦登麻和(訶)比賣命亦名飯日比賣命生御子御真津日子訶恵志泥命次多藝志比古命二柱故御真津日子訶恵志泥命者治天下也次當藝志比古命者血沼之別多遅麻之竹別葦井之稲置之祖天皇御年肆拾伍歳御陵在畝火山之真名子谷上也」、【大倭日子鋤友は輕境岡宮で天下を治めた。この天皇、師木縣主の祖、賦登麻和訶比賣、またの名は飯日比賣を娶って、子を御眞津日子訶惠志泥という。次に多藝志比古二柱。それで、御眞津日子訶惠志泥は、天下を治めた。次に當藝志比古は、血沼の別、多遲麻の竹別、葦井の稻置の祖。天皇は肆拾伍歳で崩じ、陵は畝火山の眞名子谷の上に在る。】と訳した。

立太子の記述は、倭奴国の新しい王都が前178年から22年後の前157年に遷都され、『舊事本紀』は流用で、2代続けて崩御の年を別王朝から流用し、皇后の即位も別王朝の記録で、天日方奇日方の死後に大きな混乱があって、建飯勝と娘婿の息石耳との間で皇位継承争いが起こったと考えられる。

立太子以外の晦日を朔にした他王朝の1月ズレる暦の天皇崩は安芸や筑紫の暦で、他は浪速国の説話と考えられ、建飯勝は出雲氏と姻戚になっていて、出雲と安芸は中国の領域で、「第一曰息石耳命第二曰大日本彦耜友天皇」と「立大日本彦耜友尊爲皇太子也弟磯城津彦命」で長男が入れ替わっていて、建飯勝が長男、耜友は葛城氏の子で実際は息石耳となり、建飯勝は出雲に逃れ、前王朝の中心人物が放逐されたと考えられる。

そして、やはり、『古事記』は綏靖・安寧天皇の皇后が異なり、葛城氏の妃を記述したようで、葛城氏の妃が磯城縣主の祖と、後に磯城縣主と呼ばれる人物は磯城に首都がある天皇であり、葛城氏が天皇の義兄弟になり、天皇の皇后は天豐津媛で前天皇は息石耳、高倉下が得た宝剣を祀る剱根が息石耳を破って高倉下が息石耳の娘を妃にして天皇となり、葛城氏は「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻」と娘婿の尾張氏の天忍男、子の羸津世襲が葛城の後継者となり、これが、天皇崩の日干支の資料の喪失と考えられる。

0 件のコメント:

コメントを投稿