最終兵器の目 『日本書紀』綏靖天皇類書2
『日本書紀』は概略「元年春正月壬申が朔の己卯に、神渟名川耳が即位し、葛城高丘宮を都にし、前皇后を皇太后とした。太歳庚辰。二年春正月に、五十鈴依媛皇后にした。一書に、磯城縣主の娘川派媛、一書に、春日縣主大日諸の娘糸織媛。天皇の姨で磯城津彦玉手看を生んだ。四年夏四月に、神八井耳が薨じ畝傍山の北に葬った。二十五年の春正月壬午が朔の戊子に、皇子磯城津彦玉手看を皇太子にした。三十三年の夏五月に、崩じ八十四歳だった」とある。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「元年庚辰春正月壬申朔已卯神渟名川耳尊即天皇位都是葛城謂高丘宮尊皇后曰皇太后二年立五十鈴依姬為皇后即天皇之姨也皇后生磯城津彦手玉看天皇也三年春正月宇摩志厨(?候)元湯彦友命為中食國政大夫也四年夏四月神八井耳命薨二十五年立皇子磯城津彦玉手看尊為太子年二十一三十三年夏五月天皇不豫癸酉崩奉葬於倭桃花鳥田岳上陵十月太子磯城津彦玉手看尊」、【元年庚辰春正月壬申が朔の已卯に、神渟名川耳は即位し、葛城に都を造り、これを高丘宮という。前の皇后を尊んで、皇太后と言った。二年、五十鈴依姫を皇后に立て、これは、天皇の叔母で、皇后は、磯城津彦玉手看を生んだ。三年春正月、宇摩志麻治命の子の彦湯支を、中食国の政大夫にした。四年夏四月、神八井耳が薨じた。二十五年、皇子の磯城津彦玉手看を皇太子に立てた。年令は二十一歳だった。三十三年夏五月に天皇は病気が治らず、癸酉の日に崩じた。倭の桃花鳥田丘上陵に葬った。十月のことで皇太子は磯城津彦玉手看だ。】と訳した。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は「神沼河耳命坐葛城高岡宮治天下也此天皇娶師木縣主之祖河俣毗賣生御子師木津日子玉手見命(一柱)天皇御年肆拾伍歳御陵在衝田」、【神沼河耳は、葛城の高岡で、天下を治めた。天皇は師木縣主の祖の河俣毘賣を娶って師木津日子玉手見一柱を生み、肆拾伍歳に衝田岡に葬った。】と訳した。
元年庚辰春正月壬申は天文学的な朔の日干支で正しそうだが、畿内朝廷に立太子は不要なので、これは、恐らく前212年に遷都して25年後の前188年で、前222年宗主国の燕が滅び、前234年に王になった倭奴国が前195年頃に衛満が箕子朝鮮を滅亡させ、遼東南部を支配して、辰国とぶつかり、倭奴国が前193年に他王家と姻戚関係になって衛満に対抗したのではないだろうか。
宇摩志麻治命の子の彦湯支は亦名木開足尼と木国を割いて支配する神を意味する人物で、中食国の政大夫、すなわち、中国・食国の高官、その子が大祢で大国の神、弟が出雲大臣で大国の王の太子、すなわち、出雲が仲国の一部、食国が大国である。
そして、その孫が鬱色謎で子が開化、その子が彦湯産隅、その子が大箇木垂根王と木国を支配する王、彦湯産隅の母竹野媛は丹波道主で大国の道王と、すべて、大国の説話である。
しかも、湯産隅は産霊が日国の神であったように湯産隅は三国湯と言う地域の神で湯支は湯岐と考えられ湯という地域の岐神で、足尼(すくね)は『日本書紀』の本文での初出が崇神朝の大水口宿禰でその父大木食が最初で、 足尼はおそらく「たらしね」が本来の姿で、王宮を統治する人の意味と考えられ、彦湯支が木国の足尼、子の大祢が大国の天子に当たる神官で名が無く、弟の出雲醜が出生地の名が付く大国王の太子、子の大木食が大国・木国・食国の王となり、崇神天皇にその地位を奪われた。
そして、綏靖天皇の皇后の名と父親が異なり、川派媛が葛城氏の磯城津彦玉手看の母で、義父が磯城彦で葛城宮を支配する天皇の神八井・五十鈴依媛の片腕として、沼河耳が磯城縣主に婿入りしたと考えられる。
天皇家の家系は高皇産霊(三嶋溝橛)→玉櫛媛( 三国 )→蹈韛五十鈴媛( 三八国 )→五十鈴依媛( 八国 )→渟名底仲媛(大八国)となり、 五十鈴依媛の母の玉櫛媛、姉の蹈韛五十鈴媛、 更に渟名底仲媛、男系は三嶋溝橛、五十鈴依媛の父の事代主、兄の天日方奇日方 夫の神八井・姪の子の息石耳と皇位が受け継がれ、息石耳の娘の天豐津媛、おそらく、『舊事本紀』の神武天皇妃の阿比良比賣で、神武天皇は髙倉下だったと思われる。
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