『古事記』前川茂右衛門寛永版は「師木津日子玉手見岡也師木津日子玉手見命坐片塩浮穴宮治天下也此天皇娶河俣毗賣之兄縣主(波)延之女阿久計(斗)比賣生御子常根津日子伊呂泥命次大倭日子鋤友命次師木津日子命此天皇之御子等并三柱之中大倭日子鋤友命者治天下次師木津日子命之子二王坐一子孫者伊賀須知之稲置那婆理之稲置三野之稲置之祖一子和知都美命者坐淡道之御井宮故此王有二女兄名蝿伊呂泥亦名意富夜麻登久迩阿禮比賣命弟名蝿伊呂杼也天皇御年肆拾玖歳御陵在畝火山之美富登也」、【師木津日子玉手見は片鹽浮穴宮で天下を治めた。この天皇は河俣毘賣の兄の縣主波延の娘の阿久斗比賣を娶って子の常根津日子伊呂泥。次に大倭日子鋤友。次に師木津日子。この天皇の子達あわせて三柱の中で、大倭日子鋤友は、天下を治めた。次に師木津日子の子に、二王がいた。一人の子は、伊賀の須知の稻置、那婆理の稻置、三野の稻置の祖。一人の子和知都美は、淡道の御井宮にいた。それで、この王は、二人の娘がいた。上の名は繩伊呂泥または意富夜麻登久迩阿禮比賣。下は蝿伊呂杼だ。天皇は肆拾玖歳で畝火山の美富登に葬った。】と訳した。
天皇名は剱根以前若しくは襲名した剱根の葛城氏がどの国に支配されたかを示す名前で、三国・八国連合→三国そして、八国に支配され、尾張氏が前392年に八国の王になり、葛城氏の剱根の孫の羸津世襲が葛城王、娘の世襲足姫・羸津世襲の子や孫達が前290年に大国・八国連合の王・天皇となったと思われる。
皇后が『古事記』は他の史書と異なり、縣主波延の娘で、これは、葛城氏が師木津日子と呼ぶように、磯城彦の配下と考えられるので、縣主波延は上司の娘、従って、その娘を妃にするのだから、葛城氏の妃を記述している。
これは、恐らく、『古事記』の雄略記に「其家云其上堅魚作舎者誰家荅白志幾之大縣主家」と磯城の大縣主が天皇と同じ家の作りだったように、この時、天皇は息石耳、師木縣主波延が磯城王で磯城王の配下の葛城氏は師木津日子(剱根)と国境の将軍、師木津日子の孫の葛城彦羸津世襲(耜友)が王都磯城を守る葛城王の地位(彦)を得て、葛城氏がさらに倭足彦と八国統治を任され、さらに大倭根子(天皇)となったと考えられる。
出雲色や大祢は孝元天皇妃鬱色謎の祖父にあたり、もっと後代の人物で、三国王の配下で大国王、そして、磯城王の配下になり、磯城王が天皇となると、葛城氏は葛城彦と将軍になり、師木津日子(剱根)の子の和知都美の娘意富夜麻登久迩阿禮比賣・蝿伊呂杼は孝霊天皇の妃で、この時、葛城氏は大日本根子と根(天)子・神子・天皇の役職名で、和知都美は御井宮に住み、御井は八上姫の子が御井神と八国の神で神八井の子、すなわち、和知都美は磯城彦の妹と葛城氏の子供で、伊賀・名張・美濃の近江道領域を領有する野洲の王と考えられ、倭足彦である。
觀松彦は天皇を退位した若倭根子大毗々と伊迦賀色許賣の娘の御眞津比賣と記述されるように、御眞津比賣の兄弟と考えられ、崇神天皇の妃は大毗古の娘となっていて、御眞津比賣ではなく御間城姫が正しいと考えられ、大毗古が前100年頃に春日朝の最後の天皇だったと言え、觀松彦は大彦が春日に出た後、大国の御間城に入ったと考えられる。
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