『日本書紀』は概略「觀松彦香殖稻は大日本彦耜友の太子で母の天豐津媛は、息石耳の娘で、元年春正月丙戌が朔の甲午即位し、夏四月乙卯が朔の己未に皇后を皇太后に、秋七月に掖上池心宮に遷都。二十九年の春正月甲辰が朔の丙午に、世襲足媛を皇后にし、磯城縣主葉江の娘渟名城津媛、あるいは倭國豐秋狹太媛の娘の大井媛という。后は天足彦國押人と日本足彦國押人を生んだ。六十八年の春正月丁亥が朔の庚子に、日本足彦國押人を皇太子にし、二十歳だった。天足彦國押人は、和珥臣の始祖だ。八十三年秋八月丁巳が朔の辛酉に、天皇が崩じた。」とある。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「諱觀松彦香殖稻尊者磯城彦玉手看天皇太子也母日皇后天豊津媛命息石耳命之女也元年春正月丙戌朔甲午皇太子尊即天皇位夏四月尊皇后曰皇太后秋七月都遷腋上謂池心宮宇摩志麻治命後出石心命為大臣也二十九年春正月世襲足姬命立為皇后誕生二皇子彦國押人命次日本足彦國押人尊也三十一年春正月瀛津世襲命爲大臣六十八年春正月觀松彦香殖稻命立為皇太子年二十八十三年天皇崩明年八月葬於腋上博多山上陵誕生皇子二公兄天彦國押人命大春几等祖次日本足彦國押人尊」、【諱が観松彦香植稲は磯城彦玉手看の皇太子である。母は皇后の天豊津媛で、息石耳の娘だ。元年の春正月丙戌が朔の甲午に、皇太子は天皇に即位した。夏四月、皇后を尊んで皇太后にした。秋七月に掖上の池心宮に遷都した。宇摩志麻治の後裔の出石心を、大臣とした。二十九年の春正月、世襲足姫を皇后とした。皇后は、二人の皇子を天足彦国押人と、日本足彦国押人を生んだ。三十一年春正月、瀛津世襲を大臣にした。六十八年春正月、日本足彦押人皇太子にし、年は二十歳だった。八十三年、天皇は崩じ、翌年八月に、掖上博多山上陵に葬った。二人の皇子を生み、兄の天足彦国押人は大春日臣の祖、次に、日本足彦国押人。】と訳した。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は「御真津日子訶恵志泥命坐葛城掖上宮治天下也此天皇娶尾張連之祖奥津余曽之妹名余曽多本毗賣命生御子天押帯日子命次大倭帯日子國押人命(二柱)故弟帯日子國忍人命者治天下也兄天押帯日子命者(春日臣大宅臣粟田臣小野臣柿本臣壱比韋臣大坂臣阿那臣多紀臣羽栗臣知多臣牟耶臣都怒山臣伊勢飯高君壹師君近淡海國造之祖也)天皇御年玖拾参歳御陵在」、【御眞津日子訶惠志泥は、葛城の掖上宮で天下を治めた。この天皇は尾張連の祖の奧津余曾の妹の余曾多本毘賣を娶って、生まれた子は、天押帶日子、次に大倭帶日子國押人の二柱で、弟の帶日子國忍人は、天下を治めた。兄の天押帶日子は、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢の飯高君、壹師君、近淡海國造の祖だ。天皇は、玖拾參歳に掖上の博多山の上に陵が在る。】と訳した。
立太子した六十八年春正月丁亥朔のみ12月30日晦日で、やはり、倭奴国の前157年から68年後の前90年に新王都に遷ったと考えられ、『後漢書』に「馬韓人・・・諸國邑各以一人主祭天神號為天君」と 百濟・新羅建国前の扶余ではない馬韓人の神は天神・海士神・海士岐神で、その神徳で守られたと、天足彦の名前は良く合致する。
『古事記』はここから他史書と同じ皇后となり、しかも、この皇后世襲足姫は29年に皇后となり、28年間皇后が不在だが、首都が葛城で、『舊事本紀』「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫」、すなわち、世襲足姫の祖父が剱根神と首都の神を祀り、「羸津世襲命亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」と皇后の兄は葛󠄀木王と首都の王なのだから天皇になった人物で、大国も得て、襲名した羸津世襲は天皇である尾張氏の姫(長姫すなわち押鹿姫、次世代がさらに細姫)を娶り、天皇・葛城氏・尾張連の祖となった。
そして、皇后が29年間も不在というのは奇妙で、恐らく、天皇が決まれば皇太子が決まっているように、皇太后が決まっていれば、その跡取りの女王が決まっていると考えられ、この葛城掖上から尾張氏の朝廷が始まったのだから、綏靖朝で述べたように、尾張氏の神武天皇の天香語山・髙倉下の妃が神倭王朝の息石耳の子の天豐津媛・阿比良比賣で、子の天村雲が妹の阿俾良依姫を皇后にし、この親子に劔根が貢献したと考えられる。
すなわち、息石耳の子の武石彦奇友背・阿俾良姫・阿俾良依姫、天村雲の子の天忍人・天忍男、天忍男の皇后賀奈良知姫、娘の世襲足姫と皇位が継承され、羸津世襲が大臣と大国の王・さらに、葛城に遷って葛󠄀木彦すなわち、葛󠄀木王となり、さらに、雄略天皇の時でも、天皇と同じ様式の宮殿に住む磯城の大縣主・天皇となったのである。
葛城氏は娘婿天忍男の子の羸津世襲が葛城氏を受け継ぎ大八国の将軍の彦を名乗り、「天戸目命天忍人命之子此命葛󠄀木避姫為妻」と羸津世襲の娘の避姫が皇后となり、子の太瓊が大倭根子(天皇)に即位し、觀松彦は春日朝の時の名前と検証した。
「よそ」足媛・羸津「よそ」の「よそ」を『古事記』の余曾ではなく世襲の文字を使ったのは、襲名した名と理解したため、『日本書紀』は表意文字として使用したと考えられ、尾張氏は置部與曽・彦与曽と後代まで襲名し、羸は、葛󠄀城尾治置姫、世襲足姫の亦名の日置姫の置のことと考えられ、日置は日神を置いた、首都にした、尾治置は日神の子の日子・天皇の尾張氏を葛城に置いたという意味なのだろうか。
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