『日本書紀』は概略「日本足彦國押人は、觀松彦香殖稻の第二子で母は世襲足媛で尾張連の遠祖の瀛津世襲の妹だ。元年春正月乙酉が朔の辛亥に、皇太子が即位し、秋八月辛巳が朔に、皇后を皇太后とし、太歳己丑だった。二年冬十月に、都を室地秋津嶋宮に遷し、二十六年春二月己丑が朔の壬寅に、姪の押媛を皇后にした。あるいは、磯城縣主葉江の娘長媛あるいは、十市縣主五十坂彦の娘五十坂媛という。后は大日本根子彦太瓊を生んだ。」とある。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「諱日本足彦國押人尊者觀松彦香殖稻王第二皇子母日皇后世襲足姬命大臣瀛津世襲命之妹尾張氏元年巳丑春正月皇太子尊即天皇位八月尊皇后爲皇太后二年十月都遷室地謂秋津嶋宮三年八月宇摩志麻治命裔孫六兒命三兒命並爲足尼次爲宿祢二十六年立姪押媛爲皇后誕生日本根彦太瓊命七十六年大日本根子彦大瓊尊立爲皇太子年二十六百二年春正月天皇崩秋九月葬於玉手丘上陵誕生大日本根子彦大瓊尊」、【諱は日本足彦国押人で觀松彦香殖稻王の第二子だ。母は世襲足姫といい、大臣瀛津世襲の妹で尾張氏だ。治世元年・己丑年春正月、即位した。八月、皇后を皇太后とした。二年十月、室地の秋津嶋宮に遷都した。三年八月宇摩志麻治の末裔の六見と三見を足尼とし、次いで宿祢とした。二十六年、姪の押媛を皇后とし、大日本根子彦太瓊を生んだ。七十六年、大日本根子彦太瓊を皇太子とした。年は二十六歳だった。百二年春正月、天皇が崩じた。秋九月に、玉手丘上陵に葬った。天皇は、大日本根子彦太瓊を生んだ。】と訳した。
七十六年春正月己巳朔は天文学的朔だが、太子は天皇即位と同時に決まっているので、倭奴国の王都継承で前90年から76年後の前15年で、この王朝は『三国史記』の赫居世八年「倭人行兵欲犯邊聞始祖有神德」と前50年に新羅を攻撃し、『三国史記』「三十八年春二月遣瓠公聘於馬韓 ・・・以至卞韓樂浪倭人・・・倭人無不畏懷・・・瓠公者未詳其族姓本倭人』と前18年の百濟建国に力を貸し、倭国は百濟が滅亡した後まで百濟を庇護した。
新羅の皇子が角鹿に来て住み着いたのだから人質のために来て、百濟は「皆古之辰國也馬韓最大共立其種為辰王」と記述され、これが紀元前18年頃で、それ以前は馬韓が辰国で、辰国王が新羅に「辰韓耆老自言秦之亡人・・・馬韓割東界地與之・・・有似秦語」と記述されるように土地を与えて、馬韓建国より前の前57年に馬韓すなわち辰国が土地を割譲して新羅を建国して、中国語ではない秦語を使い、『漢書』の朝鮮に「眞番辰國欲上書見天子又雍閼弗通元封二年」と前109年以前に漢の天子に会いたいと言う辰国王が三国の角鹿にいた事を示している。
前109年は若狭に葛城氏の稚倭根子、出雲や狗奴國は三国の三嶋溝杭の末裔の国、前18年は近江王朝の国と思われ、前109年は辰国、前18年は秦国と考えられ、秦語が中国語なら、現代の朝鮮語の語順は異なっていたと考えられる。
『三国史記』に「辰人謂瓠爲朴」と記述して、辰人が賜姓し、『後漢書』の「秦之亡人」も中国語でない秦語を話す、元々辰国の亡人と考えられ、後の『隋書』の秦王国となる国のことと考えられる。
ここの足尼は「大間宿禰」が『日本書紀』の初出で大国の職名、すなわち、三国王朝の職名と考えられる。
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