前項の続き。
日本の皇位継承で一番重要な人物は皇太后という事が解り、皇后の娘や、同じ首都に住む皇后の兄弟の娘が皇位を継承したのであり、姫が断絶すると、皇后の男児の妃と祖の兄弟が皇位を受け継ぎ、皇后が嫁の宮に引っ越して皇太后となることで継承されたと考えられる。
本来、国というのは土地が重要で、男王が皇位を継承するためには、同じ集落の姫に婿入りしない限り皇位継承出来ず、他集落に婿入りすると本家の集落の住民は服従せず、土地の姫に対して服従したため、皇太后が重要であった。
そのため、記録が残った神八国から王朝が、三嶋溝材(大三輪君大国・三国・八国の君子国王)・活玉依姫→鞴五十鈴→五十鈴依姫→渟中底姫→天豊姫→世襲足媛→天押姫→磯城細姫→鬱色謎→伊香色謎と皇太后によって皇位は継承され、崇神天皇が磯城に婿入りし、首都が磯城になったので、天皇は磯城彦となり、『古事記』が大目を磯城縣主と呼ばなかったように、崇神朝以降に磯城縣主が現れ、それが黒速である。
妃の「尾張大海媛亦名葛󠄀木髙名姫」「尾張連祖意富阿麻比賣」、この姫は『舊事本紀』では「尾張大倭媛」、その子が十市瓊入姫のように、『日本書紀』の磯城縣主大目や磯城縣主葉江は朝廷のまだ姓がない尾張氏だったことが解る。
「天香語山命尾張連等祖」・「羸津世襲命亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」、羸津世襲の母は「葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫」のように、尾張氏は葛城氏と同族で、大海が大倭と『舊事本紀』は理解し、倭をいつまで「あま」と読んでいたのか解らないが、葛城氏が政権をとる400年頃までは倭を「あま」と呼んでいた可能性があり、倭は最初が「八」、尾張氏の祖の和知都美から「海」、崇神天皇から秦・近江王朝が「日本」と尾張王朝の「海」、履中天皇から「大和」だったと考えられる。
神武天皇31年の「日本者浦安國・・・虚空見日本國矣」の記事は崇神31年の前60年の事で、新羅を配下とする日本国建国と考えられ、『二中歴』に「継体五年元丁酉」と517年から元号が記述され、「成始文善記以前武烈即位」と武烈天皇の時から元号が文書(紙の文書)として元号が残り、「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」と記述され、『梁書』に「扶桑皮爲紙」と扶桑皮に文字を刻んで縄で繋いだ。
すなわち、前53年から元号が始まり39年間は元号を木に刻まず、干支だけ刻み、その干支が和語だったので節気が漢語なのに干支は和語として残り、前14年垂仁16年から元号も刻んだと記述され、それが、『古事記』と『日本書紀』で異なる首都磯城と纏向の相違点で日本・秦朝廷が纏向で建国した証拠となった。
景行天皇元年西暦71年に「因以改元」の改元は、秦朝以前からあった、「辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」のように、遷都する時に改元年(はじめの年を改む)していた証拠で、前660年から既に宮元号(神国・八国連合国元号)があった。
其々遷都が無い天皇の元年は史書に記述されない都があったのであり、記述された首都名は平郡朝によって付加されたことが解り、神武天皇から葛城氏が天皇になる孝霊天皇までは葛城氏の住んでいた王都だったと理解できる。
0 件のコメント:
コメントを投稿