2022年2月16日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』孝元天皇類書1

  『日本書紀』は概略「大日本根子彦國牽天皇は大日本根子彦太瓊天皇の太子で母は細媛、磯城縣主大目の娘だ。七十六年春二月に、前天皇が崩じ、元年春正月辛未が朔の甲申に即位した。四年春三月甲申が朔の甲午に、輕の境原宮に遷都した。六年秋九月戊戌が朔の癸卯に、大日本根子彦太瓊天皇を片丘馬坂陵に葬った。七年春二月丙寅が朔の丁卯に、欝色謎を皇后にし、二柱の男と一柱の女を生んだ。第一を大彦、第二を稚日本根子彦大日日天皇、第三を倭迹迹姫という。あるいは、天皇の母弟の少彦男心という。妃の伊香色謎は彦太忍信を生む。次妃の河内青玉繋の娘の埴安媛は武埴安彦を生む。兄の大彦は阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹狹城山君・筑紫國造・越國造・伊賀臣凡て七族の始祖だ。彦太忍信は、武内宿禰の祖父だ。二十二年春正月己巳が朔の壬牛に、稚日本根子彦大日日尊を皇太子にした。年は十六。五十七年秋九月壬申が朔の癸酉に、大日本根子彦國牽天皇が崩じた。」とある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「諱大日本根子彦國牽皇太子尊者大日本根子大瓊天皇太子也母日皇后細媛命磯城縣主大目之女也元年丁亥春正月皇太子尊即天皇位尊皇后為皇太后四年春三月都遷輕地謂境原宮七年春二月欝色謎命立為皇后誕生二男一女兒大彦命次稚日本根子彦大日日尊次迹迹姬命妃伊香色謎命誕生彦大忍信命次妃河内青王繫埴安姬生武埴安彦命八年春正月物部連公祖宇摩志麻治命裔媛鬱色雄命爲大臣亦太縁押命為大孫二月尊皇后日皇太后皇太后追贈大皇太后二十二年正月稚日本根子彦大日日命立爲皇太子年十六五十七年秋九月天皇崩後帝六年葬於劔池嶋上陵誕生四男一女兒大彦命阿倍臣髙橋臣等祖次稚日本根子彦太日日尊次彦太忍信命紀臣等祖次武埴安彦命岡屋臣等祖次倭迹々姬命伊勢齋祠」、【諱は大日本根子彦国牽皇太子は大日本根子大瓊天皇の皇太子で、母は皇后細媛といい、磯城縣主の大目の娘だ。治世元年丁亥年春正月に皇太子は即位して、先の皇后を、皇太后と尊んだ。四年春二月に、都を軽の地の境原宮に遷した。七年の春二月に欝色謎を皇后とし、皇后は、二男一女を生んだ。大彦、次に稚日本根子彦大日日、次に倭迹迹姫だ。妃の伊香色謎は、彦太忍信を生んだ。次の妃の河内の青玉繋の娘の埴安姫は武埴安彦を生んだ。八年の春正月、物部連の祖の宇摩志麻治の子孫の、欝色雄を大臣とし、また、大綜杵を大祢とした。二月に、皇后を皇太后と尊んだ。また、皇太后に大皇太后を追号して贈った。二十二年正月、稚日本根子彦大日日尊を、皇太子とした。年は十六歳だった。五十七年秋九月、天皇は崩じ、次の天皇の六年に、剣池島上陵に葬った。天皇は、四男一女を生んだ。大彦は阿倍臣、高橋臣の祖。次に、稚日本根子彦大日日。次に、彦太忍信は紀臣の祖。次に、武埴安彦は岡屋臣の祖。次に、倭迹迹姫は伊勢の神を斎き祀った。】と訳した。

この項の朔の日干支は九州の暦が多く、孝霊天皇崩、孝元天皇即位、輕境原宮遷都まで、九州の暦だが、欝色謎の皇后即位以降は天文学的に正しい朔となり、これは、前天皇の孝元の死亡から遷都まで混乱があり、資料が残っていなくて、別の王朝の資料を使用したと考えられる。

この別王朝が、もし倭ならば、立太子と整合せず、即位記事や遷都記事、天皇の死亡記事や埋葬記事など、もっと多くの九州暦の記事でなくてはならないが、ほとんどが朝廷の暦で、大国は筑紫すなわち三身国の援助で建国しているのだから、筑紫・宗像に記録が残っていても不思議ではない。

それに対して、立太子は、立太子する前に太子が存在したり、高千穂王朝が滅亡しても記述され、天武天皇まで立太子が続き、日本は古の倭奴国と『舊唐書』は述べて、倭国記事なら整合し、高千穂王朝滅亡後、倭は中国に朝貢しているので、中国の暦と朝廷の暦を対応させた可能性がある。

すなわち、倭の建国時の前253年冬甲寅を高千穂宮のある王の前619年1月甲寅(前620年12月晦日壬子)と対応させ、この日が神武天皇42年1月甲寅だったということである。

廿二年春正月己巳朔の立太子は天文学的朔の日干支だが、この太子だけ特別に開化天皇の立太子とは考えにくく、やはり、倭国の西暦21年から22年後の西暦42年に王都を遷したと考えられる。 

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