2022年2月21日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』孝元天皇類書3(朝鮮半島)

  前項の続きである。

『漢書』に、「會稽海外有東鯷人分為二十餘國以歳時來獻見云」と漢建国時には東鯷人の国が有り、次代の開化天皇の時、物部氏に皇位を奪取され、これ以降記述された国は『漢書』「眞番辰國欲上書見天子又雍閼弗通元封二年」と前109年、開化朝時に記述され、ところが、前90年頃完成した『史記』には「真番旁眾國欲上書見天子」と崇神朝開始直ぐで、日本国の名を認識できておらず、同時代資料として、開化天皇・崇神天皇と王朝交代があった事を示している。

『史記』に記述される「箕子朝鮮」は『山海經』が記述する朝鮮と同じで『海内東經』の蓋州の南にあった国で、おそらく、燕の滅亡により、朝鮮北部が混乱し、それで韓が影響され混乱が発生したので、日本が朝鮮半島南部の韓地を支え、倭や衛氏が蓋州南の西朝鮮を攻撃して衛氏が朝鮮を建国した。

朝鮮は『海内經』「東海之内北海之隅有國名曰朝鮮」と遼東半島基部で、『海内東經』に「蓋國在鉅燕南倭北」と遼東半島とその北部が蓋国・蓋州でその南の島々や半島は倭、「朝鮮在列陽東海北山南列陽屬燕」と平壌付近が列陽でその東の黄海南道あたりが箕子朝鮮、苔灘郡は別国だったようで、遼東半島基部の朝鮮以南は韓であった。

『遼史』には「渤海改爲蓋州又改辰州以辰韓得名」と辰韓建国以前には蓋州を辰州と呼び、蓋州が辰の領域だった事を示し、朝鮮半島東部は釜山近辺が「軒轅之國在之際其不壽者八百歳」と軒轅之国と「白民之國・・・肅慎之國在白民」のように粛慎の南に白民之国が存在し、それ以外は人が住んでいる程度の国と呼ばれない地域の様だ。

但し白民之國は『大荒東經』・『大荒西經』にも存在し、「有白民之國帝俊生帝鴻帝鴻生白民」と帝俊の氏族が建国し、「帝俊生三身」と「白民之國」、「三身國」ともに帝俊が生み、「肅慎之國在白民北有樹名曰雒棠聖人代立」と「肅慎之國」は聖人が支配し、「六合」は「聖人能通其道」と記述され、帝俊は聖人・肥後の人物と考えられる。

『山海經』・『海外西經』に「女子國在巫咸北兩女子居水周之」と島で2女王国と記述され、2島の対馬と思われる女子国の北の「軒轅之國在之際其不壽者八百歳」と八百年の伝統がある軒轅之国、「白民之國・・・乘之壽二千歳」と建国2千年、『山海經』が前3千年頃の内容と考えられるので、前5千年の白民之国、すなわち、アカホヤの頃の建国の国、「肅慎之國在白民北有樹名曰雒棠聖人代立」と聖人が統治する 白民之国の北に接する肅慎之国が有りその北に長股之国がある。

『大荒東經』には「有白民之國帝俊生帝鴻帝鴻生白民」と帝俊の子の帝鴻がアカホヤによって建国した日本列島の太平洋岸に白民之国が有り、その分国が、朝鮮半島北東部に有って、「帝俊妻娥皇生此三身之國」と記述するように、白民之国は三身之国と同族の国である。

『海外南經』に「神靈所生其物異形或夭或壽唯聖人能通其道」と聖人が行き交い、肅慎之国を統治し、聖人は日本海ではなく、黄海・玄界灘に住み、アカホヤで逃げ出して太平洋や朝鮮に行った人達で、白民之国に行き交いしたのは聖人の一人と考えられる。

『出雲風土記』に「三身之綱打挂而」と三身国の援助で大国を建国し、国引き神話に「北門佐伎之國」、「北門良波乃國」は帝俊が生んだ三身国の同盟国の「白民之國」、聖人が統治する「肅慎之國」の可能性が高く、「志羅紀乃三埼」が「軒轅之國」と考えられる。

そして、「高志之都都乃三埼」は「朝陽之谷神曰天呉是為水伯在グ(エ+虫)グ(エ+虫)北兩水間其為獸也八首人面八足八尾背青黃」と八岐大蛇を想像させる半島の国で君子国(三国)の北方に有り、朝陽之谷が良く合致し、三首国・隠岐の三小島の東の周饒国・隠岐島後の説話と考えられ、最初は島後が三小島を統合した時の説話が国引き神話の始まりで、国引き神話は前4千頃の説話の可能性が有るのではないだろうか。

なお、「軒轅之國」・「白民之國」は『大荒西經』にも記述されて不審に思えるが、「有軒轅之國江山之南棲為吉不壽者乃八百歳」と建国が全く同じで、「女子之國」・「丈夫之國」も記述され、『海外西經』は「西有王母之山壑山海山有沃民之國」と西王母のいる『大荒西經』の地でもあることが理解でき、東方父・西王母伝説の地は『海外西經』が舞台ではないのか。

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