2022年2月7日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』孝霊天皇類書1

  『日本書紀』は概略「大日本根子彦太瓊は、日本足彦國押人の太子で母は押媛で、天足彦國押人の娘か。秋九月甲午が朔の丙午に、日本足彦國押人を玉手丘上陵に葬った。冬十二月癸亥が朔の丙寅に、皇太子は、黒田廬戸宮に遷都。元年の春正月壬辰が朔の癸卯に、即位。皇后を皇太后とした。是年は太歳辛未。二年春二月丙辰が朔の丙寅に、細媛を皇后とし、あるいは、春日千乳早山香媛、あるいは、十市縣主の祖の娘眞舌媛という。后は、大日本根子彦國牽を生んだ。妃の倭國香媛、またの名は絚某姉は倭迹迹日百襲姫・彦五十狹芹彦またの名は吉備津彦・倭迹迹稚屋姫を生む。亦妃の絚某弟は彦狹嶋・稚武彦を生む。弟の稚武彦、吉備臣の始祖だ。三十六年春正月己亥が朔の日に、彦國牽を皇太子にした。七十六年春二月丙午が朔の癸丑に、天皇が崩じた。」とある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「諱大日本根子彦太瓊尊者日本之足彦國押人天皇太子也母日皇后押媛命元年癸未春正月皇太子尊即天皇位尊皇后爲皇太后二年二月立細媛命爲皇后誕生皇子一柱兒大日本根子彦國牽皇子命等妃倭國香媛亦名纏其姉誕生三皇子兒倭迹日襲姫命次彦五十狹彦命亦名吉備津彦命次倭迹稚屋命妃絙其弟誕生四皇子兒彦狹島命次稚武彦命次弟稚武彦命三年春正月宇摩志麻治命裔孫大水口命大矢口命並為宿祢二十六年春正月彦國牽皇子立爲太子年十九七十六年春二月天皇崩後帝四年葬於片岡馬坂陵誕生五皇子兒大日本根子彦國牽尊兒彦五十狹彦命亦名吉備津彦命吉備臣等祖次彦狹島命海直等祖

次稚武彦命宇自可直等祖次弟稚武命」、【諱は大日本根子彦太瓊で日本の足彦國押人の皇太子だ。母は皇后の押媛。元年癸未年春正月に、皇太子は即位し、皇后を皇太后とした。二年二月に、細媛を皇后とし、一人の皇子を生んだ。大日本根子彦国牽皇子だ。妃の倭国香媛、またの名を紐某姉は、三人の子を生んだ。倭迹迹日百襲姫、次に彦五十狭芹彦またの名を吉備津彦、次に倭迹稚屋姫だ。次の妃の紐某弟は、四人の子を生んだ。彦狭嶋、次に稚武彦、次に弟稚武彦だ。三年春正月、宇摩志麻治命の子孫の、大水口と大矢口を宿祢にした。二十六年春正月、彦国牽皇子を、皇太子にした。年は十九歳。七十六年春二月、天皇は崩じ、次帝の治世四年に、片岡馬坂陵に葬った。天皇は、五人の皇子を生んだ。大日本根子彦国牽。彦五十狭芹彦命またの名を吉備津彦命で吉備臣の祖。次に、彦狭嶋、海直の祖。次に、稚武彦、宇自可臣の祖。次に、弟稚武彦命。】と訳した。

三十六年春正月己亥朔立太子は倭奴国の王都交代で前15年から36年後の西暦21年と考えられ、14年に「南解次次雄十一年倭人遣兵船百餘艘掠海邊民戸」と百濟のために新羅を攻撃し、倭は人質を取ったが百濟を攻撃しておらず、倭と敵対する新羅、敵対しない百濟である。

天皇の崩の日干支が九州の暦だが、検証は孝元天皇の項で行う。

皇后は細姫で『日本書紀』も『舊事本紀』も親は磯城縣主としているが、『古事記』は「十市縣主之祖」と磯城ではなく十市で、しかも、『古事記』は「師木縣主祖河俣毘賣」・「師木縣主祖賦登麻和訶比賣」と雄略記「志幾大縣主」以前に師木縣主は出現せず、「河俣毘賣兄縣主波延女阿久斗比賣」と河俣毘賣も師木縣主ではなく、河俣毘賣と波延が磯城などの地名を持たない縣主・天皇だったことを示し、懿徳・孝昭・孝安朝は襲名した波延の師木王の朝廷だったと思われる。

皇后世襲足姫の兄の羸津世襲が葛城彦・葛城縣主だった、すなわち、羸津世襲が葛城に住み、葛城縣は葛城氏の王都のことで、神武から孝安天皇までの都は天皇の都ではなく、葛城氏が住んでいた場所を宮と記述し、支配されて役職名が変わる度に宮が変わったことを示し、葛城王の太瓊が磯城に天皇として都を置いた。

耳の姓を持つ三国配下の日子八井(恐らく天村雲)の子の波延(初代天忍人)が剱根・玉手見の兄弟の出石姫を妃にした師木津日子(?師木日子)、その子の三国配下の淡道御井宮王の和知都美・2代目天押人・天足彦(倭彦)と、波延朝廷は、近江の野洲が首都だったが、三国から大国を奪って磯城に遷都して、弟の天忍男が葛城王剱根の娘の賀奈良知姫を妃に、羸津世襲が生まれ大倭足彦の配下の国押人と祖の兄弟の押姫(?避姫)で、そして、押姫の子の太瓊が前天皇の子の建斗禾の娘の細媛を皇后に、細媛の宮殿磯城で大倭根子・天皇になったことを意味する。

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