『日本書紀』は概略「三十八年秋八月丙子が朔の己丑に、觀松彦香殖稻を掖上博多山上に葬った。七十六年春正月己巳が朔の癸酉に、大日本根子彦太瓊を皇太子にそた。年は二十六だった。百二年春正月戊戌が朔の丙午に、天皇が崩じた。」とある。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は「大倭帯日子國押人命坐葛城室之秋津嶋宮治天下也此天皇娶姪忍鹿比賣命生御子大吉備諸進命次大倭根子日子賦斗迩命故大倭根子日子賦斗迩命者治天下也天皇御年壱佰弐拾参歳御」、【大倭帶日子國押人は、葛城室秋津島宮で天下を治めた。この天皇、姪忍鹿比賣を娶って、生んだ子、大吉備諸進。次に大倭根子日子賦斗迩の二柱。それで、大倭根子日子賦斗迩が、天下を治めた。天皇の年が壹佰貳拾參歳に崩じ玉手の岡の上に葬った。】と訳した。
そして、『日本書記』では日本足彦国押人すなわち倭足彦国押人、すなわち、葛城氏の役職名が八国王の配下で、まだ、大倭根子・天皇ではなく、本来の天皇は天足彦・天子で近淡海國造の祖すなわち縣主波延の娘の孫の「坐淡道之御井宮」の八国王和知都美と記述するように、縣主波延が天皇と考えられ、天足彦國押人である天忍人は「天忍人命此命異妹角屋姫亦名葛󠄀木出石姫」のように、剱根の娘出石姫を妃にして、天戸目が生まれて後継し、天足彦・天皇となった。
天忍男の妻賀奈良知姫の娘は世襲足姫で、世襲足姫は天忍人の姪にあたり、羸津世襲が義兄弟、「姪押媛爲皇后」、羸津世襲は姪忍鹿比賣を妃、すなわち、 天戸目の兄弟を妃にし、天戸目・八(天)足彦は「天戸國(?目)命天忍人命之子此命葛󠄀木避姫為妻生一男」と義兄弟の羸津世襲の娘・姪押媛を皇后にしたと考えられる。
天忍人・天戸目は丹波大国を得ることで、丹波・山背・近江・美濃・若狭までを支配し、天忍人が天皇(天神)で天戸目が皇太子となり、『日本書紀』では天忍男の子の瀛津世襲・葛城彦・倭足彦は八国の将軍だったが、大国王だった物部氏が臣下になって『古事記』では大倭足彦となった。
すなわち、前475年から前291まで天足彦・天忍人・葉江が襲名した王朝だが、孝昭天皇の埋葬が38年も後の理由を考えると、皇后擁立も二六年とあり、孝安天皇は天忍男・羸津世襲が皇位を奪って首都を変え、26年に天忍人の娘を皇后に迎え入れた。
襲名した天忍男・羸津世襲が38年に死亡し、皇后の兄の天戸目が羸津世襲の娘の葛󠄀木避姫を妃に迎えて天皇に即位し、天忍人を襲名し、羸津世襲の子で、葛󠄀木避姫の兄弟の太瓊が皇位を継承したのではないのだろうか。
長期の王朝は、このように、皇后と皇后の兄弟が統治し、その子達が相互に配偶者となったり、手研耳が義母の妹を皇后にすることで、皇位継承を行った事が示され、天皇・倭足彦を襲名した天戸目の妻で襲名した天忍男の妹の襲名した忍日女・葛󠄀木避姫皇后が皇位を簒奪し、忍日女の兄弟の襲名した羸津世襲の子の天忍男・葛城彦・大倭足彦が天戸目(?建斗禾)の娘の細媛(?宇那比姫)に婿入りして皇后にし、磯城の黒田で皇位に就き、天戸目を十市縣に追い出した。
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