『日本書紀』は概略「稚日本根子彦大日日は、大日本根子彦國牽の第二子、母は欝色謎で穗積臣の遠祖の欝色雄の妹で、前天皇二十二年の春正月に皇太子になり十六歳だった。五十七年秋九月に天皇が崩じ冬十一月辛未が朔の壬午に、即位した。元年春正月庚午が朔の癸酉に、皇后を皇太后とし、冬十月丙申が朔の戊申に、春日の率川宮に遷した。五年春二月丁未が朔の壬子に、前天皇を劒池嶋上陵に葬った。六年春正月辛丑が朔の甲寅に、庶母の伊香色謎を皇后とし、御間城入彦五十瓊殖を生み、これより先に、丹波竹野媛を妃にして彦湯産隅亦の名は彦蒋簀を生んだ。次妃の和珥臣の遠祖の姥津の妹の姥津媛は彦坐王を生んだ。二十八年の春正月癸巳が朔の丁酉に、御間城入彦を皇太子にし十九歳だった。六十年の夏四月丙辰が朔の甲子に、天皇が崩じた。冬十月癸丑が朔の乙卯に、春日率川坂本陵に葬った。あるいは、坂上陵。百十五歳だった。」とある。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「諱稚日本根子彦大日日尊者日本根子彦國牽天皇第二子也母日皇后鬱色謎命物部連公祖出石心命孫也元年癸未春正二月皇太子尊即天皇位二年春正月尊皇后曰皇太后尊皇太后追贈大皇太后冬十月都遷春日地謂率川宮七年春正月伊香色謎命立為皇后並女誕生御間城入彦五十瓊殖命也先天皇納丹波竹野媛為妃生彦湯彦隅命次妃和迩臣遠祖姥津命之妹姥津姬生彦坐王八年春正月以大祢大綜押命為大臣武建命大峯命並爲大祢二月伊香色雄命爲大臣並物部連公遠祖宇摩志麻治命抄二十八年春正月御間城入彦命並為太子年十九六十年夏四月天皇崩十月葬於春日率川坂本陵亦云坂上時年百十五歳誕生四皇子兒御間城入彦五十狹弟尊次彦坐王當麻坂上君等祖次彦小將箐命品治部君等祖彦湯産隅命次武齒頬命道守臣等祖」、【諱は稚日本根子彦大日日で日本根子彦國牽の第二子、母は皇后の欝色謎、物部連の祖の出石心の孫で、治世元年癸未年の春二月に皇太子は天皇に即位した。二年の春正月に前の皇后を皇太后とし、皇太后に、大皇太后を追号した。冬十月に都を春日の率川宮に遷した。七年の春正月、伊香色謎を皇后とし、皇后は、天皇の庶母で、御間城入彦五十瓊殖を生んだ。これより前に、天皇は丹波の竹野媛を妃とし、彦湯産隅を生んだ。次の妃の和迩臣の遠祖の姥津の妹の姥津姫は、彦坐王を生んだ。八年の春正月に大祢の大綜杵を大臣とし、武建と大峯を大祢とした。二月に伊香色雄を大臣とし、これらは皆、物部連の遠祖の宇摩志麻治命の子孫だ。二十八年の春正月に御間城入彦を皇太子にし、年は十九歳だった。六十年の夏四月に天皇は崩じ、十月に春日の率川坂本陵に葬った。または坂上陵といい、年は百十五歳だった。天皇は四人の皇子を生み、御間城入彦五十瓊殖、次に、彦坐王は当麻坂上君の祖、次に、彦小将簀は品治部君の祖、彦湯産隅。次に、武歯頬、道守臣の祖。 】と訳した。
「六年春正月辛丑朔」は前月晦日30日、「六十年夏四月丙辰朔」も前月晦日30日の九州の暦で、畿内の天皇が記録を残せなかったことを示し、「立伊香色謎命爲皇后」と皇后になった物部氏の暦が九州の暦で、『舊事本紀』の同記事が「七年春正月伊香色謎命立為皇后」と1年ズレていて、葛城東鯷天皇が「稚日本根子彦」と若狭・野洲の王に降格したと記述し、若狭は狭霧の物部氏の出自と考えられるので、物部氏が辰神を名乗り、その配下は辰国天子の配下の王、開化朝には彦坐王と天皇以外に初めての王、辰王が現れた。
すなわち、開化天皇の時代は、物部氏が天皇で、葛城氏は物部氏が支配する若・八王、物部氏の子の大彦が大国を統治し、「一云坂上陵」は九州の暦を使った王の葬った場所かもしれない。
なお、前回の屋主忍男武雄心の分析の続きになるが、屋主忍男武雄心は名前から八国王で、天忍男を襲名していると考えられる。
そうすると、屋主の時に和珥氏宇那比姫に婿入りし、甥の建諸隅に屋主が受け継がれ、その甥が坐王、その子の淡海の天之御影神の子の水之穂眞若が安直の祖、そして、彦坐王の三世の孫の大陀牟夜別が淡海國造志賀髙穴穗朝と淡海に首都がある時に淡海國造なのだから大陀牟夜別が天皇と言うことになり、母が八坂入媛、その父が八坂入彦、その父母が水之穂眞若・大海媛、その父母が坐王・息長水依比賣ということになり、大海媛は建諸隅の妹で、八(安)坂の坂上君の祖が坐王となる。
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