2022年1月17日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』と海外文献 倭国2

  引き続き、前回の立太子の掘り下げの続編です。

倭奴国は燕が山東半島を失うなど弱体化したので前253年に燕から離れて倭奴国王が中心勢力に成長し、前222年に倭の宗主国の燕が滅亡し、朝鮮や韓が不安定になり、倭奴国が丈夫国を受け継ぐ狗奴国や畿内政権・辰国に対抗するために、漢の庇護を求めたと考えられる。

倭は燕の滅亡で、狗奴国や辰国と対抗するために、漢に庇護を求めて『漢書』に「海中有倭人分為百餘國以歳時來獻見云危四度至斗六度謂之析木之次燕之分也」と貢献して、燕の南西方向の分地で漢の支援を得たようだ。

大和朝廷の辰国は「會稽海外有東鯷人分為二十餘國以歳時來獻見云」と漢に貢献したと記述し、「眞番辰國欲上書見天子又雍閼弗通元封二年」と前109年に親書を上程している。

『三国史記』の阿達羅尼師今の「二十年夏五月倭女王卑彌乎遣使來聘」は奈解尼師今の20年、215年の当て嵌め間違いと考えられ、215年なら卑弥呼即位後で、新羅に出向いたと思われる。

そして、309年以前の306年に「遣阿知使主都加使主於呉」と親子が記述されるが、倭国の立太子309年の翌年の310年に「阿知使主等自呉至筑紫・・・是則今在筑紫國御使君之祖」と筑紫の「君(王)を使役する神」になると記述され、都加使主は記述されずに政権交代が起こったことを証明し、阿知使主の直系が阿知使主を名乗り、日直や倭漢直と呼ばれ、日直は日国造と同等である。

そして、421年、『宋書』に「永初二年倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」と讃が貢献しているが、『日本書紀』「去來穗別天皇二年立爲立爲皇太子」と401年立太子の王都、「太祖元嘉二年讃」以降に「讃死弟珍立」で元嘉「二十年倭國王濟遣」、元嘉「二十八年・・・濟死丗子興遣使」、「興死弟武立・・・順帝昇明二年遣使」、『梁書』「天監元年・・・鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」と続き、珍と濟は続柄を記述しないので、恐らく次男以降の親子で、続いて濟の長男、そして、弟武であるが、武は少なくとも41年間在位しているので、即位は若く、妃がいないうちに即位した可能性があり、同じ王都で即位したと思われ、434年「廿三年春三月甲午朔庚子立木梨輕皇子爲太子」の立太子は珍の容姿先を王都とし、濟・丗子興と同じ王都、雄略二二年、478年「白髮皇子爲皇太子」で同年昇明二年に武が貢献し、間に4回王都を変え、その後、磐井・葛子・火中君と554年に欽明「十五年春正月戊子朔甲午立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」と火中君の弟の筑紫火君が皇太子になって王都が変わり、568年「廿九年立爲皇太子」で東漢直駒、皇太子多利思北孤、592年「漢直駒弑于天皇・・・駒奸嬪事顯爲大臣所殺」と王の駒が死に、591年に皇太子だった多利思北孤が王となって、591年に皇太子になった王の子はまだ不在で、皇太子は弟が即位し、593年「夏四月庚午朔己卯立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」と利歌彌多弗利が皇太子になったが、ただし、東漢直駒は利歌彌多弗利が襲名した可能性が高く、崇峻天皇暗殺は629年の可能性が高い。

そして645年皇極4年「庚戌譲位於輕皇子立中大兄爲皇太子」と橘豐日天皇之孫高向王」、橘豐日は馬子、高向王は東漢直駒の子で、漢皇子は天智天皇、その母の『新唐書』「天豐財」中宮天皇は『薬師寺東塔の擦管』に「清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆」と680年まで存命で、671年に天智天皇の伯父・孝徳天皇の弟の東宮太皇弟が失脚して、天智天皇の弟が皇太子となって大津に遷都、天武天皇十年「立草壁皇子尊爲皇太子」・『新唐書』「天智死子天武立と天智天皇の子で天武天皇の兄が皇太子になって681年飛鳥浄御原に遷都したと考えられる。

孝徳天皇は持統四年記事に「天命開別天皇三年・・・筑紫君薩夜麻・・・博麻謂土師富杼等曰・・・得通天朝汝獨淹滯他界於今卅年」と690年から30年前、すなわち660年代に唐に残り、当然、白村江敗戦の後なのだから662年以降で、671年では20年で年数が合わず、664年なら天智摂政3年で、「夏五月戊申朔甲子百濟鎭將劉仁願遣朝」と唐使が来日しいて、664年6月の乙巳の日のクーデタで政権奪取した天萬豊日が筑紫君薩夜麻、中宮天皇の弟恐らく義弟で、高向王の弟、東漢直駒の子・馬子の孫と思われ、孝徳天皇が蘇我蝦夷で、中宮天皇は皇極天皇とは別人物、蝦夷の娘なので、『新唐書』「孝德死其子天豐財立」と孝徳天皇の子と述べ、天萬豊日は蝦夷が生存中に死亡し、『新唐書』に記載されなかったようだ。

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