今回は、壬申の乱で長文なので、解説を先にする。
ここでの登場人物は、冠位が全く記述されず、3つの特色あるグループに分けることが出来る。
1つは、『日本書紀』で褒賞されて、『続日本紀』で褒賞されず、しかも、壬申の乱で登場しない人物、1つは『続日本紀』の710年までに記述された人物および701年の褒賞で冠位が無い人物、そして616年以降に記述された人物である。
村國小依は最大の功労者で天武天皇五年に「村國連雄依卒以壬申年之功贈外小紫位」と冠位を記述するが、 大宝元年の「先朝論功行封時賜村國小依百廿戸」と冠位を記述せず、また、『日本書紀』に百廿戸を与えた記事もなく、霊亀二年には「壬申年功臣贈少紫村國連小依息」と死亡時に与えられた冠位を記述して、『日本書紀』の資料が手に入ったことで褒賞していない人物にも褒賞を行ったようだ。
すなわち、実際に起こった事実を並び替えると壬申の乱→ 先朝論功行封時→大宝元年(村國連雄依卒→贈外小紫位)→霊亀二年と考えられ、小紫位は大化改元時に古い冠位を復古し、雄依に与えられた可能性があり、大化3年の冠位一十三階と大化5年の冠位十九階の改変の期間が短すぎるのは一方が697年か699年の出来事だった可能性が高、恐らく冠位が増えた冠位十九階が699年だったのだろう。
『日本書紀』慶長版は
「是月朴井遭(?連)雄君奏天皇曰臣以有私事獨至美濃時朝庭宣美濃尾張兩國司曰爲造山陵豫差定人夫則人別令執兵臣以爲非爲山陵必有事矣若不早避當有危歟或有人奏曰自近江京至于倭京處處置候亦命菟道守橋者遮皇大弟宮舍人運私粮事天皇惡之因令問察以知事已實於是詔曰朕所以讓位遁世者獨治病全身永終百年然今不獲已應承禍何默亡身耶六月辛酉朔壬午詔村國連男依和珥部臣君手身毛君廣曰今聞近江朝庭之臣等爲朕謀害是以汝等三人急往美濃國告安八磨郡湯沐命多臣品治宣示機要而先發當郡兵仍經國司等差發諸軍急塞不破道朕今發路甲申將入東時有一臣奏曰近江群臣無有謀心必造天下則道路難通何無一人兵徒手入東臣恐事不就矣天皇從之思欲返召男依等即遣大分君惠尺黃書造大伴逢臣志摩于留守司髙坂王而令乞驛鈴因以謂惠尺等曰若不得鈴廼志摩還而覆奏惠尺馳之往於近江喚髙市皇子大津皇子逢於伊勢既而惠尺等至留守司舉東宮之命乞驛鈴於髙坂王然不聽矣時惠尺往近江志摩乃還之復奏曰不得鈴也是日發途入東國事急不待駕而行之儵遇縣犬養連大伴鞍馬因以御駕乃皇后載輿從之逮于津振川車駕始至便乗焉是時元從者草壁皇子忍壁皇子及舍人朴井連雄君縣犬養連大伴佐伯連大目大伴連友國稚櫻部臣五十瀬書首根摩呂書直智德山背直小林山背部小由安斗連智德調首淡海之類二十有餘人女孺十有餘人也即日到菟田吾城大伴連馬來田黃書造大伴從吉野宮追至於此時屯田司舍人土師連馬手供從駕者食過甘羅村有獦者二十餘人大伴朴本連大國爲獦者之首則悉喚令從駕亦徵美濃王乃參赴而從矣運湯沐之米伊勢國駄五十匹遇於菟田郡家頭仍皆棄米而令乗步者到大野以日落也山暗不能進行則壤取當邑家籬爲燭及夜半到隱郡焚隱驛家因昌(唱)邑中曰天皇入東國故人夫諸參赴然一人不肯來矣將及横河有黑雲廣十餘丈經天時天皇異之則舉燭親康式占曰天下兩分之祥也然朕遂得天下歟即急行到伊賀郡焚伊賀驛家還于伊賀中山而當國郡司等率數百衆歸焉會明至莿萩野暫停駕而進食到積殖山口髙市皇子自鹿深越以遇之民直大火赤染造德足大藏直廣隅坂上直國麻呂古市黒麻呂竹田大德膽香瓦臣安倍從焉越大山至伊勢鈴鹿爰國司守三宅連石床介三輪君子首及湯沐令田中臣足麻呂髙田首新家等參遇于鈴鹿郡則且發五百軍塞鈴鹿山道到川曲坂下而日暮也以皇后疲之暫留輿而息然夜曀欲雨不得淹息而進行於是寒之雷雨已甚從駕者衣裳濕以不堪寒及到三重郡家焚屋一間而令熅寒者是夜半鈴鹿關司遣使奏言山部王石川王並來歸之故置關焉天皇便使路直益人徵」
【この月に、朴の井の連の雄君が、天皇に「私は、私事が有って、一人で美濃に行った。その時に朝庭が、美濃・尾張、二つの国司に宣下して『山陵を造るために、あらかじめ人夫を記して準備しなさい』と言った。それで各人のそれぞれが武器を執った。私が思うに、山陵を作ってはいけない、きっと何か起こる。もし早急に中止しなければ、必ず危機が訪れる」と奏上した。ある人が「近江の京から、倭の京に至るまで、所々に様子見を置いた。また菟道の橋守に命じて、大皇弟の宮の近習の、私物の兵糧を運ぶ事を止めるべきだ」と奏上した。天皇は、不快に思って、それで詳しく調べて、すべて事実だったことを知った。そこで、「私は、位を讓って隠遁したのは、自分で体の病を治し、ずっと過ごしたいからだ。しかし今、どうすることもできずにわざわいを受けた。どうして黙って身を滅ぼそうと言うのか」と詔勅した。六月の朔が辛酉の壬午の日に、村国の連の男依・和珥部の臣の君手・身毛の君の廣に 「いま聞いたのだが、近江の朝庭の臣下達が、私を傷つけよう謀っている。それで、お前達三人は、すぐに美濃の国に行って、安八磨の郡の湯沐令の多の臣の品治に告げて、はかりごとの要点を伝え示して、まず當の郡の兵を蜂起させなさい。それで、国司達に伝えて、諸軍を蜂起させて、すみやかに不破の道を塞ぎなさい。私は、これから出立しよう」と詔勅した。甲申の日に、東に入った時に一人の臣下がいて、「近江の役人は、元々、悪だくみの心が有った。きっと天下に危害を及ぼす。それで道路を通れなくするでしょう。どうして一人の兵も持たない、素手で東に入れましょうか。私が恐れるのは、事を成就できないことです」と奏上した。天皇は、それに従って、男依達を呼び返そうと思った。それで大分の君の惠尺・黄書の造の大伴・逢の臣の志摩を留守を守る役人の高坂の王のもとに派遣して、駅馬の供与を受ける資格の鈴を求めた。それで惠尺達に「もし鈴を得られなければ、志摩は帰って復命しなさい。惠尺は馬を走らせて、近江に行って、高市の皇子・大津の皇子を呼び寄せて、伊勢で会うように」と言った。それで惠尺達は、留守を守る役所について、東宮の命を述べて、駅馬の供与を受ける資格の鈴を高坂の王に求めた。しかし聞かなかった。それで惠尺は、近江に行った。志摩はそれで帰って、「鈴を得ることが出来なかった」と復命した。この日に、出発して東国に入った。事を急いで、駕籠を待たずに行った。すぐに縣犬養の連の大伴の鞍が付いた馬に遇って、それで乗った。それで皇后は、輿に載って従った。津振の川について、車駕がはじめて到着した。それで乗った。この時、はじめから従った者は、草壁の皇子・忍壁の皇子、および近習の朴の井の連の雄君・縣犬養の連の大伴・佐伯の連の大目・大伴の連の友國・稚櫻部の臣の五百瀬・書の首の根摩呂・書の直の智徳・山背の直の小林・山背部の小田・安斗の連の智徳・調の首の淡海の仲間たち、二十人余で、下級女官は十人余居た。その日に、菟田の吾城に着いた。大伴の連の馬來田・黄書の造の大伴が、吉野の宮から追いついた。この時、屯田の司の近習の土師の連の馬手が、駕籠に従う者の食事を提供した。甘羅の村を過ぎ、狩りの者が二十人余居た。大伴の朴本の連の大國は、狩りの者の首だ。それで残らず呼んで駕籠に従わせた。また美濃の王を呼び寄せた。それで参上して従った。湯煎した米を運ぶ伊勢の国の荷駄五十匹に、菟田の郡の家のところで会った。それで皆、米を棄てて、歩く者を乗せた。大野に着いたら日が暮れた。山が暗くなって進軍出来なかった。それでその邑の家の垣根を壊し取って明かりとした。夜半になって隱の郡に着いて、隱の駅の施設を焼いた。それで邑の中で「天皇が、東国に入った。それで、人夫達よそれぞれ参上しなさい」と呼びかけた。しかし一人も来なかった。横河に着こうとしたとき、黒雲がわき立った。広さ十丈余で天まで広がった。その時に、天皇は怪しんだ。それで明かりを手に持って自ら無事を占って、「天下が二つに分れるきざしだ。しかし私がきっと天下を得る」と行った。それですみやかに行軍して伊賀の郡に着いて、伊賀の駅の施設を焼いた。伊賀の山中に着いて、當の国の郡司達が、数百の人々を率いて集まって来た。明け方に、莿萩野に着いて、しばらく駕籠を停めて食事をした。積殖の山の入り口に着いて、高市の皇子が、鹿深から越えて会った。民の直の大火・赤染の造の徳足・大藏の直の廣隅・坂上の直の國麻呂・古市の黒麻呂・竹田の大徳・膽香瓦の臣の安倍が従った。大山を越えて、伊勢の鈴鹿に着いた。ここに国司守の三宅の連の石床・副官の三輪の君の子首、および湯沐の令の田中の臣の足麻呂・高田の首の新家達が、鈴鹿の郡に集まって会った。それでまた、五百の軍を蜂起して、鈴鹿の山道を塞ごうとした。川曲の坂下に着いて、日が暮れた。皇后が疲れたので、しばらく輿を留めて休息した。しかし夜に曇って雨が降って来た。それで休むことが出来なかったので進軍した。そこで、寒くて雷がなり雨が降ってひどかった。駕籠に従う者は、衣服が濡れて、寒さに耐えられなかった。それで三重の郡家に着いて、家屋を一軒焼いて、凍えた者の暖を取った。この夜半に、鈴鹿の関の司が、使者を派遣して「山部の王・石川の王が、帰順した。それで、関に置いた」と奏上した。天皇は、それで路の直の益人を使者にして召喚した。】とあり、六月辛酉朔は6月2日で暦が違い、やはり、703年が合致する。
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