2020年12月25日金曜日

最終兵器の目 天武天皇5

  今回も壬申の乱で長くなるので、先に解説を書こうと思う。

三回に渡って壬申の乱を解説したが、壬申の乱は、八月庚申朔が8月2日で九州の説話、大臣たちの処刑は畿内の説話ではなく、672年に発生した、「左大臣蘇賀赤兄臣右大臣中臣金連及大納言蘇賀果安」達と戦った説話と、草壁皇子が全く登場しないことから、689年の草壁皇子死後で高市皇子が生きていた、但し「後皇子尊薨」と実際死んだか不明だが696年までに発生した大友皇子との戦い、そして、701年に発生した文武朝のクーデタの説話が接合された記述と考えられる。

蘇賀・中臣大臣を殺害したのにその後に持統四年の「高市爲太政大臣以正廣參授丹比嶋眞人爲右大臣」まで左右大臣を置かず、この間は鎌足が内大臣として大友皇子太政大臣を補佐したと考えられる。

天智紀は大化5年699年まで記述され、天武天皇の内容には700年以降の説話が挿入されていて、天武天皇五年の「村國連雄依卒」は701年正月の大伴連御行・縣犬養宿祢大侶達と一緒に反乱を起こし、それに天武天皇が対応しようと都を離れたときに、文武天皇がクーデターを起こした可能性が高い。

『古事記』に「飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜龍躰元洊雷應期」と清原大宮天皇の時に反乱を起こして即位したと記述し、藤原遷都は『続日本紀』に慶雲元年十一月「始定藤原宮地」と704年に遷都していて、それまでは浄御原宮である。

『日本書紀』慶長版は

「是日將軍吹屓爲近江所敗以獨率一二騎走之逮于墨坂遇逢菟軍至更還屯金綱井而招聚散率於是聞近江軍至自大坂道而將軍引軍如西到當麻衢與壹伎史韓國軍戰葦池側時有勇士來目者拔刀急馳直入軍中騎士繼踵而進之則近江軍悉走之追斬甚多爰將軍令軍中曰其發兵之元意非殺百姓是爲元凶故莫妄殺於是韓國離軍獨逃也將軍遙見之令來目以俾射然不中而遂走得免焉將軍更還本營時東師頻多臻則分軍各當上中下道而屯之唯將軍吹屓親當中道於是近江將犬養連五十君自中道至之留村屋而遣別將廬井造鯨率二百精兵衝將軍營當時麾下軍少以不能距爰有大井寺奴名德麻呂等五人從軍即德麻呂等爲先鋒以進射之鯨軍不能進是日三輪君髙市麻呂置始連菟當上道戰于箸陵大破近江軍而乗勝兼斷鯨軍之後鯨軍悉解走多殺士卒鯨乗白馬以逃之馬墮埿田不能進行則將軍吹屓謂甲斐勇者曰其乗白馬者廬井鯨也急追以射於是甲斐勇者馳追之比及鯨々急鞭馬々能拔以出埿即馳之得脱將軍亦更還本處而軍之自此以後近江軍遂不至先是軍金綱井之時髙市郡大領髙市縣主許梅儵忽口閇而不能言也三日之後方着神以言吾者髙市社所居名事代主神又牟狹社所居名生雷神者也乃顯之曰於神日本磐余彥天皇之陵奉馬及種々兵器便亦言吾者立皇御孫命之前後以送奉于不破而還焉今旦立官軍中守護之旦言自西道軍衆將至之冝愼也言訖則醒矣故是以便遣許梅而祭拜御陵因以奉馬及兵器又捧幣而禮祭髙市身狹二社之神然後壹伎史韓國自大坂來故時人曰二社神所教之辭適是也又村屋神著祝曰今自吾社中道軍衆將至故冝塞社中道故未經幾日廬井造鯨軍自中道至時人曰即神所教之辭是也軍政既訖將軍等舉是三神教言而奏之即勅登進三神之品以祠焉辛亥將軍吹負既定倭地便越大坂往難波以餘別將軍等各自三道進至于山前屯河南將軍吹屓難波小郡而仰以西諸國司等令進官鑰驛鈴傳卯癸丒諸將軍等悉會於筱(此云佐々)浪而探捕左右大臣及諸罪人等 乙夘將軍等向於不破宮因以捧大友皇子頭而獻于營前八月庚申朔甲申命髙市皇子宣近江群臣犯狀則重罪八人坐極刑仍斬右大臣中臣連金於淺井田根是日左大臣蘇我臣赤兄大納言巨勢臣比等及子孫幷中臣連金之子蘇我臣果安之子悉配流以餘悉赦之先是尾張國司守少子部連鉏釼匿山自死之天皇曰鉏釼有切者也無罪何自死其有隱謀歟丙戌恩勅諸有功勳者而顯寵賞九月已丑朔丙申車駕還宿伊勢桑名丁酉宿鈴鹿戊戌宿阿閇已亥宿名張庚子詣于倭京而御嶋宮癸夘自嶋宮移崗本宮是歳營宮室於崗本宮南即冬遷以居焉是謂飛鳥淨御原宮冬十一月戊子朔辛亥饗新羅客金押實等於筑紫即日賜祿各有差十二月戊午朔辛酉選諸有功勳者増加冠位仍賜小山位以上各有差壬申舩一隻賜新羅客癸未金押實等罷歸是月大紫韋那公髙見薨」

【この日に、將軍の吹負は、近江の軍の為に敗れて、一二人の騎兵を率いて逃げた。墨坂に着いて、たまたま菟の軍が来たのに会った。さらに帰って金綱の井に駐屯して、散り散りになった兵士を招き集めた。そこで、近江の軍は、大坂の道から来ると聞きて、將軍は兵士を引いて西に行き、當麻の要衝に着いて、壹伎の史の韓國の軍と葦池の辺で戦った。その時、勇士の來目という者がいて、刀を拔いて急に馳せ参じて、一気に軍の中に入った。騎士は次から次へと絶え間なく進軍して近江の兵は残らず逃げた。追いかけて斬ること多数だった。そこで將軍は、軍中に「この兵を蜂起した元々の真意は、百姓を殺すのではない。元凶を倒すためだ。だから、みだりに殺してはならない」と命令した。そこで、韓國は、軍を離れて一人で逃げた。將軍は遠くを見て、來目に弓を射させたが当たらず、とうとう走って逃げることが出来た。將軍は、また本陣に帰った。その時に東の軍は、どんどん多数集まって、兵士を分けて、各々、上中下の道に割り当てて駐屯させた。ただし將軍の吹負だけ、自ら中道に当たった。そこで、近江の將軍の犬養の連の五十君は、中道から来て、村屋に留まって、別の將軍の廬井の造の鯨を派遣して、二百の精兵を率いて將軍の陣営を攻撃した。その時に配下の兵士が少く防げなかった。そこで大井寺の使用人、名は徳麻呂達五人がいて軍に従った。それで徳麻呂達は、先鋒として、進軍して矢を射った。鯨の軍は進むことが出来なかった。この日に、三輪の君の高市麻呂・置始の連の菟が、上道に当たり、箸陵で戦った。近江の軍を大破して、勝利に乗じて、ついでに鯨の軍の退路を断った。鯨の軍は残らず武器を解いて逃げて、多くの兵士を殺した。鯨は、白馬に乗って逃げた。馬が泥田に墮ちて、進んでいくことが出来なかった。それで將軍の吹負は、甲斐の勇者に「あの白馬に乗った者は、廬井の鯨だ。すみやかに追って射殺せ」と言った。そこで、甲斐の勇者は、馬に乗って追いかけた。鯨に追いつくころに、鯨は急に馬に鞭を打った。馬がうまく泥から抜け出した。それで馬で逃げることが出来た。將軍は、またさらに本拠に帰って軍を置いた。これより後、近江の軍はとうとう来なかった。これより前に、金綱の井に軍を置いた時に、高市の郡の大領の高市の縣主の許梅が、急にに口が閉じて、言葉を発せられなくなった。三日後に、神がかりして「私は、高市の社に居る、名は事代主の神だ。また、身狹の社に居る、名は生靈の神だ」と言った。すなはち「神日本磐余彦天皇の陵に、馬と種々の兵器を奉納しなさい」と顕わした。それでまた「私は皇御孫の命の前後に立って、不破に送って奉還する。いまも官軍の中に立って守護している」と言った。また「西道から軍兵が来ようとしている。慎重になれ」と言った。言ひ終わって覚めた。それで、すぐに許梅を派遣して、御陵を祭り拝んで、それで馬と兵器を奉納した。また幣を捧げて、高市・身狹の、二社の神を祭礼した。その後で壹伎の史の韓國が、大坂から遣って来た。それで、当時の人が「二社の神の教えた言葉はまさしくこれだ」と言った。また村屋の神は、神職が神がかりして、「今、私の社の中道から、軍兵が遣って来る。それで、社の中道を守れ」と言った。それで、まだ幾日も経たずに、廬井の造の鯨のが軍が、中道から遣って来た。当時の人は、「すなわち神の教えた言葉は、これだ」と言った。戦がすべて終わってから、將軍達は、この三神の教えた言葉を奏上した。それで詔勅して三神に品物を進上して祠った。辛亥の日に、將軍の吹負は、すでに倭の地を平定した。それで大坂を越えて、難波に行った。そのほか別の將軍達が、各々三つの道から進軍して、山前に着いて、河の南に駐屯した。それで將軍の吹負は、難波の小郡に留まって、西方の諸國司達に言って、役所のカギ・駅使を証明する鈴・証明の印を進上させた。卯癸の日に、諸々の將軍達は、残らず筱浪に集まって、左右の大臣、および諸々の罪人達を探し捕まえた。乙卯の日に、將軍達は不破の宮に向った。それで大友皇子の頭を捧げて、陣営の前に献上した。八月の朔が庚申の甲申の日に、高市皇子に命じて、近江の臣下の犯した罪状を宣下させた。それで重罪の八人を極刑にした。なお、右大臣の中臣の連の金を淺井の田根で斬った。この日に、左大臣の蘇我の臣の赤兄・大納言の巨勢の臣の比等、および子や孫、一緒に中臣の連の金の子、蘇我の臣の果安の子を残らず流刑にした。このほかはのこらず赦免した。これより前に、尾張の國司の守の少子部の連の鉏釼が、山に隠れて自ら死んだ。天皇は「鉏釼は功が有った者だ。罪も無いのにどうして自ら死んだ。それはなにか陰謀があったのか」と言った。丙戌の日に、諸々の勲功が有った者に恩勅して、皆の前で恩賞を与えた。九月の朔が己丑の丙申の日に、駕籠で帰って伊勢の桑名に宿を取った。丁酉の日に、鈴鹿に宿を取った。戊戌の日に、阿閉に宿を取った。己亥の日に、名張に宿を取った。庚子の日に、倭京に着いて、嶋の宮にいた。癸卯の日に、嶋の宮から岡本の宮に移った。この歳は、宮室を岡本の宮の南に造った。その冬に、遷り住んだ。これを飛鳥の淨御原の宮という。冬十一月の朔が戊子の辛亥の日に、新羅の客の金押實達を筑紫で饗応した。その日に、俸禄を与え各々差が有った。十二月の朔が戊午の辛酉の日に、諸々の勲功が有った者を選んで、冠位を加増した。なお、小山の位より以上を与えること、各々、差が有った。壬申の日に、船を一隻、新羅の客に与えた。癸未の日に、金押實達が帰った。この月に、大紫の韋那の公の高見が薨じた。】とあり、八月庚申朔以外は標準陰暦と合致する。

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