2020年12月11日金曜日

最終兵器の目 天智天皇8

  『日本書紀』慶長版は

九年春正月乙亥朔辛巳詔士大夫等大射宮門內戊子宣朝庭之禮儀與行路之相避復禁斷誣妄妖偽二月造戸籍斷盜賊與浮浪于時天皇幸蒲生郡匱邇野而觀宮地又修髙安城積穀與塩又築長門城一筑紫二三月甲戌朔壬午於山御井傍敷諸神座而班幣帛中臣金連宣祝詞夏四月癸卯朔壬申夜半之後灾法隆寺一屋無餘火雨雷震五月童謠曰于知波志能都梅能阿素弭爾伊提麻栖古多麻提能伊鞞能野鞞古能度珥伊提麻志能倶伊播阿羅珥茹伊提麻西古多麻提能鞞能野鞞古能度珥六月邑中獲龜背書申字上黃下玄長六寸許秋九月辛未朔遣阿曇連頰垂於新羅是歳造水碓而冶鐵十年春正月己亥朔庚子大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前奏賀正事癸卯大錦上中臣金連命宣神事是日以大友皇子拜太政大臣以蘇我赤兄臣爲左大臣以中臣金連爲右大臣以蘇我果安臣巨勢人臣紀大人臣爲御史大夫甲辰東宮太皇弟奉宣施行冠位法度之事大赦天下丁未髙麗遣上部大相可婁等進調辛亥百濟鎮將劉仁願遣李守真等上表是月以大錦下授佐平余自信沙宅紹明以小錦下授鬼室集斯以大山下授達率谷那晉首木素貴子憶禮福留荅㶱春初㶱日比子贊波羅金羅金湏鬼室集信以上小山上授達率德頂上吉大尚許率母角福牟以小山下授餘達率等五十餘人童謠云多致播那播於能我曳多曳多那例々騰母陀麻爾農矩騰岐於野兒弘伱農倶二月戊辰朔庚寅百濟遣臺久用善等進調三月戊戌朔庚子黃書造本實獻水臬甲寅常陸國貢中臣部若子長尺六寸其生年丙辰至此歳十六年也

九年の春正月の朔日が乙亥の辛巳の日に、貴族達に詔勅して、朝廷内で大射をした。戊子の日に、朝庭での禮儀と、行き交うときに互いに譲り合うことを宣下した。また、誹謗やあやしい言説を厳重に禁止した。二月に、戸籍を造った。盗賊と浮浪者を禁じた。その時に、天皇は、蒲生の郡の匱邇の野に行幸して、宮地を見た。また、高安の城を修繕し、殻物と鹽とを積んだ。又、長門の城一つ・筑紫の城二つを築く。三月の朔が甲戌の壬午の日に、山の御井の辺に、諸神の座を敷いて、供物を分けた。中臣の金の連が、祝詞を宣べた。夏四月の朔が癸卯の壬申の日に、あかつきに、法隆寺に火災があった。一屋も余すことが無かった。大雨がふり雷が鳴り響いた。五月、童謠に言うことに、()六月に、邑の中で亀を獲った。背に申の字が書かれていた。上が黄色で下は赤黒かった。長さ六寸くらい。秋九月の辛未の朔の日に、阿曇の連の頬垂を新羅に派遣した。この歳に、水碓を造って鉄鉱石を溶かした。十年の春正月の朔が己亥の庚子の日に、大錦上の蘇我の赤兄の臣と大錦下の巨勢の人の臣とが、殿の前に進み出て、賀正の事を奏上した。癸卯の日に、大錦上の中臣の金の連が、命じられて神事を宣べた。この日に、大友の皇子を、太政大臣官位を授けた。蘇我の赤兄の臣を、左大臣にした。中臣の金の連を、右大臣にした。蘇我の果安の臣・巨勢の人の臣・紀の大人の臣を、御史大夫にした。甲辰の日に、東宮の太皇弟が天皇の命により宣下して、冠位・法度の事を施行した。天下に大赦をした。丁未の日に、高麗が、上部の大相の可婁達を派遣して、年貢を進上した。辛亥の日に、百済の鎭將の劉仁願は、李守眞達を派遣して、上表文を送った。この月に、大錦下を、佐平の余自信・沙宅紹明に授けた。小錦下を、鬼室集斯に授けた。大山下を達率の谷那晉首・木素貴子・憶禮福留・答㶱春初・㶱日比子贊波羅金羅金須・鬼室集信に授けた。小山上を、達率の徳頂上・吉大尚・許率母・角福牟に授けた。小山下を、余の達率達五十余人に授けた。風刺歌に()。二月の朔が戊辰の庚寅の日に、百済が臺久用善達を派遣して、年貢を進上した。三月の朔が戊戌の庚子の日に、黄書の造の本實が水測り()を献上した。甲寅の日に、常陸の国が、中臣部の若子貢上した。背丈が尺六寸だった。その生れた年は丙辰よりこの歳まで、十六年だ。】とあり、九月辛未朔は644年の8月30日若しくは701年の可能性があり、二月戊辰朔は1月30日で1月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

前項で述べた通り、鎌足の死亡が持統6年の692年頃と考えられ、ここで記述される宣下した大皇弟は大海皇子ではなく、孝徳天皇の皇弟で、天智天皇はまだ23歳程度で大友皇子はまだ幼少で13歳に達しておらず、694年の出来事と考えられる。

しかも、大海人皇子なら大皇弟ではなく皇弟で、695年の大友皇子即位の時の大皇弟と考えられ、『藤氏家伝』に「太皇弟以長槍刺貫敷板帝驚大怒以將執害大臣固諌帝即止之太皇弟初忌大臣所遇之高」と続いて「自茲以後 殊親重之」さらに「後値壬申之亂從芳野向東土歎曰若使大臣生存吾豈至於此困哉人之所思略此類也」と意味が通らない文面で、太皇弟が恨んだはずなのに、仲良くなったが、結局謀反を起こしたような書きまわしだ。

天皇が即位した時の乱暴で、鎌足の出世を妬んだ太皇弟と前紀に「生而有岐嶷之姿及壯雄拔神武。能天文遁甲」と記述される優秀な天武天皇と別人で、『藤氏家伝』も二人の太皇弟を記述していて、『新唐書』も「天智死子天武立」と天武天皇が天智天皇の子と記述され、大友皇子の兄弟が即位した。

すなわち、やはり乱暴な大皇弟は即位できず、文武天皇の祖父とは別人で、『粟原寺鑪盤銘』の「爾故比賣朝臣額田以甲午年始至和銅八年」と額田姫が「奉為大倭国浄御原宮天下天皇時」と694年に浄御原宮天皇の時に大倭国の為に寺を造り、「日並御宇東宮」と日並が太皇弟で、妻が額田姫すなわち額田部の姫で大倭国王舒明天皇の系列の王家である。

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