2020年12月23日水曜日

最終兵器の目 天武天皇4

  今回も壬申の乱で長くなるので、先に解説を書こうと思う。

前項で、天智紀と天武紀の断絶を記述したが、『続日本紀』と天武・持統紀も断絶があり、當麻眞人國見・文忌寸智徳・大伴宿祢御行御行・阿倍朝臣御主人は天武・持統紀で壬申の功を記述せず、しかも、大宝元年七月の褒賞以前も壬申の功に触れていない。

全て触れないかと言えばそうでもなく、文武元年「賜勤大壹丸部臣君手直廣壹」、文武二年「直廣參田中朝臣足麻呂卒詔贈直廣壹」、文武三年「坂上忌寸老壬申年軍役・・・宜贈直廣壹」、大宝元年正月「直廣壹縣犬養宿祢大侶卒・・・贈正廣參」、大宝元年六月「正五位上忌部宿祢色布知卒詔贈從四位上」と壬申の功を述べて褒賞され、丸部臣君手は生きていて、大宝元年七月の褒賞の人物はほとんど生きていて、大伴連御行・縣犬養宿祢大侶は701年に発生した壬申の役の立案をし、功績があったため、一緒に褒賞した可能性がある。

そして、阿倍朝臣御主人は大宝元年三月甲午に「建元爲大寶元年始依新令改制官名位号・・・以大納言正從二位阿倍朝臣御主人爲右大臣」と右大臣まで出世するが壬申の功を記述せず、一斉褒賞に記述されながら、死亡時も壬申の功を記述されなかった。

壬申の役の人物が大宝元年まで、これだけの多くの人物が生き残り、716年に次世代の人物に褒賞したというのは、670の褒賞と考えることが合理的とは言えず、701年に壬申の役が発生したと考える方が理に適う。

そのため、757年の恩賞で「合傳三世從五位上尾治宿祢大隅壬申年功」と三世代後で60年ならよく合致し、758年にも「尾張連馬身以壬申年功」と壬申年の褒賞を行い、「馬身子孫並賜宿祢姓」と3世代程度後に姓を与えて、世間も納得出来るが、1世紀も後の5世代程後では馬身を知る人物がいない。

『日本書紀』慶長版は

「秋七月庚寅朔辛卯天皇遣紀臣阿閇麻呂多臣品治三輪君子首置始連菟率數万衆自伊勢大山越之向倭旦遣村國連男依書首根麻呂和珥部臣君手膽香瓦臣安倍率數万衆自不破出直入近江恐其衆與近江師難別以赤色著衣上然後別命多臣品治率三千衆屯莿萩野遣田中臣足麻呂令守倉歴道時近江命山部王蘇賀臣果安巨勢臣比等率數萬衆將襲不破而軍于犬上川濱山部王爲蘇賀臣果安巨勢臣比等見殺由是亂以軍不進乃蘇賀臣果安自犬上返刺頸而死是時近江將軍羽田公矢國其子大人等率已族來降因授斧鉞拜將軍即北入越先是近江放精兵忽衝玉倉部邑則遣出雲臣狛擊追之壬辰將軍吹負屯于乃樂山上時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰古京是本營處也宣國守將軍從之則遣赤麻呂忌部首子人令戍古京於是赤麻呂等詣古京而解取道路橋板作楯堅於京邊衢以守之癸已將軍吹屓與近江將大野君果安戰于乃樂山爲果安所敗軍卒悉走將軍吹負僅得脱身於是果安追至八口仚而視京毎街竪楯疑有伏兵乃稍引還之甲子近江別將田邊小隅越麻深山而卷幟拖皷詣于倉歴以夜半之衘梅穿城劇入營中則畏己率與足麻侶衆難別以毎人令言金仍挍刀而毆之非言金乃斬耳於是足摩侶衆悉亂之事忽起不知所爲唯足摩侶聡知之獨言金以僅得免乙未小隅亦進欲襲莿萩野營而怱到爰將軍多臣品治遮之以精兵追擊之小隅獨免走焉以後遂復不來也丙申男依等與近江軍戰息長横河破之斬其將境部連藥戊戌男依等討近江將秦友足於鳥籠山斬之是日東道將軍紀臣阿閇麻呂等聞倭京將軍大伴連吹屓爲近江所敗則分軍以遣置始連菟率千餘騎而急馳倭京壬寅男依等戰于安河濱大破則獲社戸臣大口土師連千嶋丙午討栗太軍追之辛亥男依等到瀬田時大友皇子及群臣等共營於橋西而大成陣不見其後旗旘蔽野埃塵連天鉦皷之聲聞數十里列弩亂發矢下如雨其將智尊率精兵以先鋒距之仍切斷橋中湏容三丈置一長板設有搨板度者乃引板將墮是以不得進襲於是有勇敢士曰大分君稚臣則棄長矛以重擐甲拔刀急蹈板度之便斷著板綱以被矢入陣衆悉亂而散走之不可禁時軍智尊拔刀斬退者而不能止因以斬智尊於橋邊則大友皇子左右大臣等僅身免以逃之男依等即軍于粟津岡下是日羽田公矢國出雲臣狛合共攻三尾城降之 壬子男依等斬近江將犬養連五十君及谷直?(土富:鹽)手於粟津市於是大友皇子走無所入乃還隱山前以自縊焉時左右大臣及群臣皆散亡唯物部連麻呂旦一二舍人從之初將軍吹負向乃樂至稗田之日有人曰自河內軍多至則遣坂本臣財長尾直真墨倉墻直麻呂民直小鮪谷直根麻呂率三百軍士距於龍田復遣佐味君少麻呂率數百人屯大坂遣鴨君蝦夷率數百人守石手道是日坂本臣財等次于平石野時聞近江軍在髙安城而登之乃近江軍知財等來以悉焚秋税倉皆散亡仍宿城中會明臨見西方自大津丹比兩道軍衆多至顯見旗旘有人曰近江將壹伎史韓國之師也財等自髙安城降以渡衞我河與韓國戰于河西財等衆少不能距先是遣紀臣大音合守懼坂道於是財等退懼坂而居大音之營是時河內國司守來目臣塩籠有歸於不破宮之情以集軍衆爰韓國到之密聞其謀而將殺塩籠々々知事漏乃自死焉經一日近江軍當諸道多至即並不能相戰以解退 」

【秋七月の朔が庚寅の辛卯の日に、天皇は、紀の臣の阿閉麻呂・多の臣の品治・三輪の君の子首・置始の連の菟を派遣して、数万の兵士を率いて、伊勢の大山を、越えて倭に向った。また、村國の連の男依・書の首の根麻呂・和珥部の臣の君手・膽香瓦の臣の安倍を派遣して、数万の兵士を率いて、不破から出て、すぐに近江に入った。その兵士と近江の兵士と別けられないことを恐れて、赤色の衣を上に着た。後に、別に多の臣の品治に命じて、三千の兵士を率て、莿萩野に駐屯させた。田中の臣の足麻呂を派遣して、倉歴の道を守らせた。時には近江、山部の王・蘇賀の臣の果安・巨勢の臣の比等に命じて、数万の兵士を率いて、不破を襲うとして、犬上の川の辺に軍をおいた。山部の王は、蘇賀の臣の果安・巨勢の臣の比等に殺された。この乱のために、進軍できなかった。それで蘇賀の臣の果安は、犬上から返って、頚を刺して死んだ。この時に、近江の將軍の羽田の公の矢國、その子の大人達が、同族を率いて降伏してきた。それで斧と鉞を授けて、將軍にした。それで、北越に入った。これより先に、近江は、精兵を放ち、急に玉倉部の邑に向かった。それで出雲の臣の狛を派遣して、攻撃して追い返した。壬辰の日に、將軍の吹負は、乃樂山の上に駐屯した。その時に荒田尾の直の赤磨呂が、將軍に「古い京は元々は陣営の場所だ。強固に守るべきだ」と教えた。將軍は従った。それで赤麻呂・忌部の首の子人を派遣して、古い京を外敵から守った。そこで、赤麻呂達は、古い京に着いて、道路の橋の板を抜き取って、楯に作り直して、京の辺の要衝に立てて守った。癸巳の日に、將軍の吹負、近江の將軍の大野の君の果安と、乃樂山で戦った。果安の為に敗られて、軍平が残らず逃げた。將軍の吹負は、何とか逃れることが出来た。そこで、果安は、追って八口に着いて、山に登って京をみたら、街毎に楯が立っていた。伏兵が居ることを疑って、それでしばらくして引き返した。甲午の日に、近江の他の將軍の田邊の小隅が、鹿深の山を越えて、幟を巻き付けた鼓を抱きしめて、倉歴に着いた。夜半に、梅を銜えて、城を打ち破って、激しく陣営の中に入り込んできた。それで自軍の兵と足摩侶の兵と分別できないことを恐れて、人毎に「金」と言わせた。それで刀を拔いて叩き、「金」と言わなかったら斬った。そこで、足摩侶の兵はみな混乱した。この事態が急だったのでどうしようもなかった。ただし足摩呂だけ、意味を知って、一人「金」といって何とか免れた。乙未の日に、小隅がまた進軍して、莿萩野の陣営を襲おうと急に遣って来た。そこで將軍の多の臣の品治が遮って、精兵を使って追撃した。小隅は、一人だけ免れて逃げた。以後、ついにまた軍は来なかった。丙申の日に、男依達は、近江の軍と、息長の横河で戦って破った。その將軍の境部の連の藥を斬った。戊戌の日に、男依達は、近江の將軍の秦の友足を鳥篭の山で討って斬った。この日に、東道の將軍の紀の臣の阿閉麻呂達は、倭京の將軍の大伴の連の吹負が近江の為に敗られたことを聞いて、軍を分けて、置始の連の菟を派遣して、千騎余を率いて、すみやかに倭京に駆け付けた。壬寅の日に、男依達は、安河の辺で戦って大破した。それで社戸の臣の大口・土師の連の千嶋をとらえた。丙午の日に、栗太の軍隊を追討した。辛亥の日に、男依達が瀬田に着いた。その時に大友皇子と臣下達は、一緒に橋の西に陣営を置いて、大陣営となっていてその後が見えなかった。旗が旘野を遮り、埃塵は空へとつながった。鉦鼓の音は、数十里まで聞こえた。弓が列をなし乱射して矢が雨のように降って来た。その將軍の智尊は、精兵を率いて、先鋒として防いだ。それで橋の中を切断して、三丈ほどにして、一つの長板を置いた。もしも板を踏んで渡る者がいたら、板を引いて堕とそうとした。それで、進軍して襲撃できなかった。そこに勇敢な兵士がいた。大分の君の稚臣という。それで長矛を棄てて、鎧を重ねて身に着けて、刀を拔いていそいで板を踏み渡った。それで板に着けた綱を切断し、矢を被弾しながら陣営に入った。兵士は残らず混乱して散り散りに逃げ、止めることが出来なかった。その時に將軍の智尊は、刀を拔いて逃げる者を斬りもう止められなかった。それで、智尊を橋の辺で斬った。大友皇子・左右大臣達は、なんとか逃れて逃げることが出来た。男依達は、それで粟津の岡のふもとに軍を置いた。この日に、羽田の公の矢國・出雲の臣の狛が、合流して一緒に三尾の城を攻めて降した。壬子の日に、男依達は、近江の將軍の犬養の連の五十君と谷の直の鹽手を粟津の市で斬った。そこで、大友皇子は、逃げ居る所が無かった。それで帰って山前に隱れて、自ら首をくくった。その時、左右大臣と臣下は、皆、散り散りに逃げた。ただし物部の連の麻呂は、また一二人の近習のみ従った。はじめ將軍の吹負は、乃樂に向って稗田に着いた日に、人が「河内から軍兵が多く着いた」といった。すなはち坂本の臣の財・長尾の直の眞墨・倉墻の直の麻呂・民の直の小鮪・谷の直の根麻呂を派遣して、三百の兵士を率いて、龍田で防いだ。また佐味の君の少麻呂を派遣して、数百人を率いて、大坂に駐屯した。鴨の君の蝦夷を派遣して、数百人を率いて、石手の道を守らせた。この日に、坂本の臣の財達が、平石の野に続いた。その時に、近江の軍が高安の城にいると聞いて登城した。それで近江の軍は、財達が来たのを知って、残らず税の倉を焼いて、皆、散り散りに逃げた。それで城の中を宿にした。あけぼのに、西の方を見たら、大津・丹比、両方の道から、軍兵が多数遣って来た。よく旗が見えて人が「近江の將軍の壹伎の史の韓國の軍だ」と言った。財達は、高安の城から降って衞我の河を渡って、韓國と河の西で戦った。財達は、兵が少くて距ぐことが出来なかった。これより前に、紀の臣の大音を派遣して、懼の坂の道を守せた。そこで、財達は、懼の坂に退却して、大音の陣営に居た。この時に、河内の國司の守の來目の臣の鹽篭が、不破の宮に帰順したいと思って、軍兵を集めた。そこに韓國が遣って来て、ひそかにそのはかりごとを聞いて、鹽篭を殺そうとした。鹽篭は、計画が漏れたことを知って、それで自ら死んだ。一日を経って、近江の軍が、諸々の道に多数遣って来た。それで一緒に戦うことが出来ず、退散した。】とあり、標準陰暦に合致する。

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