『日本書紀』慶長版は
「元年春正月辛酉朔甲子大伴大連金村大連更籌議曰男大迹王性慈仁孝順可承天緖冀慇懃勸進紹隆帝業物部麁鹿火大連許勢男人大臣等僉曰妙簡枝孫賢者唯男大迹王也丙寅遣臣連等持節以備法駕奉迎三國夾衞兵仗肅勲容儀警蹕前駈奄然而至於是男大迹天皇晏然自若踞坐胡床齊列陪臣既如帝坐持節使等由是敬憚傾心委命冀盡忠誠然天皇意裏尚疑久而不就適知河內馬飼首荒籠密奉遣使具述大臣大連等所以奉迎本意留二日三夜遂發乃喟然而歎曰懿哉馬飼首汝若無遣使來告殆取蚩於天下世云勿論貴賤但重其心?(蓋)荒籠之謂乎及至踐祚厚加荒籠寵待甲申天皇行至樟葉宮」
【元年の春正月の朔が辛酉の甲子の日に、大伴の金村の大連が、また、「男大迹の王は、性格がなさけ深くまごころをこめて親につかえる。最初の天子をうけ入れてもらうべきだ。できたら礼儀正しく説得して、国を統治する事業を受け継いで、さらに盛んにしてもらおう」と討議した。物部の麁鹿火の大連と許勢の男人の大臣達みなが、「選りすぐりの天孫から別れた王を選ぶのに、道理に通じた人は男大迹王以外ない」と言った。丙寅の日に、臣連達を派遣して迎えの印の剣を持って、正式な駕籠で、三国に迎えに行った。武器を持った衛士に守らせ、礼儀にかなった姿はつつしみかしこまって立派で先払いが掛け声を掛けて、息も絶え絶えやってきた。そこで、男大迹天皇は、安らかで落ち着いて少しもあわてず、胡坐でうずくまり、臣下をきれいに並ばせて、すでに皇帝が座っているようだった。徴の刀を持つ使者は、尊敬して、心を傾けて一生を委ねて、忠誠を尽くそうと願った。しかし天皇は心の中ではまだ疑って、なかなか皇位に就任しなかった。たまたま河内の馬飼の首の荒篭を知っていて、密かに使者を派遣して、詳しく大臣や大連達が迎える本当の理由を奏上した。二日三夜留まって、出発した。溜め息をつくようにして「なんと嬉しい事か、馬飼の首よ。お前がもし使者を派遣してきて教えてくれなかったら、きっと天下の笑いものとなっただろう。世の人が『貴賤をどうのこうのと言ってはならない。ただその心だけ重視しろ』というのは、きっと荒篭のような者をいうのだろう」と誉めたたえた。皇位を受け継ぐ時になって、手厚く荒篭を特別にかわいがった。甲申の日に、天皇は、樟葉の宮に着いた。】とあり、標準陰暦と合致する。
倭彦に対して天皇に即位する継体は物部麁鹿火大連と河内馬飼首荒篭が活躍するが、河内は「葬天皇於河内國長野陵」と神功皇后が葬られた場所で葛城氏の神功皇后の摂政時の応神天皇と考えられる履中天皇の馬車の馬を「河内飼部等從駕執轡」と管理し、反正天皇のとき「都於河内丹比是謂柴籬宮」と河内に遷都して、そこで神功皇后が崩じて河内國長野陵に葬ったことは十分考えられる。
それ以降、平群朝・巨勢朝では河内馬飼首らしき人物は現れず、葛城王家の後ろ盾の大伴金村に対して、その分家の倭国蘇我氏と物部麁鹿火大連と倭奴国の分家の東漢直と河内馬飼首が連合して大伴金村や物部目の秦王国と対抗したと考えられ、河内馬飼首は朱鳥元年に「倭河内馬飼部造各誄之」と天武天皇を追悼し倭河内馬飼部造と呼ばれていることからも類推できる。
雄略天皇以降から推古天皇までの『日本書紀』と仁賢天皇以降の『古事記』と『舊事本紀』は馬子が書かせた史書なのだから、倭国の内容を中心に記述し、秦王国の内容は当然記述せず、記述する場合も倭国の成果、秦王国の天皇が行った事績は蘇我氏の成果、悪者に書かれている人物が秦王国側の人物の可能性が高い。
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