『日本書紀』慶長版は
「夏四月壬午朔戊子任那王巳能末多干岐來朝啓大伴大連金村曰夫海表諸蕃自胎中天皇置內官家不棄本王封其地良有以也今新羅違元所賜封限數越境以來侵請奏天皇救助臣國大伴大連依乞奏聞是月遣使送己能末多干岐幷詔在任那近江毛野臣推問所奏和解相疑於是毛野臣次于熊川召集新羅百濟二國之王新羅王佐利遲遣久遲布禮百濟遣恩率彌騰利赴集毛野臣所而二王不自來參毛野臣大怒責問二國使云以小事大天之道也何故二國之王不躬來集受天皇勅輕遣使乎今縱汝王自來聞勅吾不肯勅必追逐退久遲布禮恩率彌縢利心懷怖畏各歸召王由是新羅改遣其上臣伊叱夫禮智干岐卒衆三千來請聽勅毛野臣遙見兵仗圍繞衆數千人自熊川入任那己叱己利城伊叱夫禮智干岐次于多多羅原不敢歸待三月頻請聞勅終不肯宣伊叱夫禮智所將士卒等於聚落乞食相過毛野臣傔人河內馬飼首御狩御狩入隱他門待乞者過捲手遙擊乞者見云謹待三月佇聞勅旨尚不肯宣惱聽勅使乃知欺誑誅戮上臣矣乃以所見具述上臣上臣抄掠四村盡將人物入其本國或曰多多羅等四村之所掠者毛野臣之過也」
【夏四月の朔が壬午の戊子の日に、任那の王の己能末多干岐が来朝した。大伴の大連の金村に、「その海の向こうの外国は、腹の中に天皇がいた皇后が、内の官家を置いてから、本来の土地を見捨てなかったので、その土地を領有できている。今、新羅は、元々から与えた領土の境界を破って、しばしば境界を越えてやって来て侵略する。お願いです、天皇に奏上して、私の国を救い助けてください」と願い出た。大伴の大連は、願いどおり聞いたことを奏上した。この月に、使者の己能末多干岐を派遣した。併せて任那に赴任している近江の毛野臣に「奏上の内容を聞き問いただして、お互いの疑いを解いて仲直りさせなさい」と詔勅した。そこで、毛野臣は、熊川に宿営して、新羅と百済の二国の王を呼び集めた。新羅の王の佐利遲は、久遲布禮を派遣して、百済は、恩率彌騰利を派遣して、毛野臣の所に夫々集まりにやってきて、二人の王は、自らやってこなかった。毛野臣は、とても怒って、二国の使者を責めて問いただして、「小国が大国に仕えることは天の道理だ。どうして二国の王が、自ら夫々やって来て天皇の詔勅を受けないで、軽輩者を使者として派遣するのだ。今、よしんばお前の王が、自ら来て詔勅を聞いても、私は詔勅を申し述べない。追い返すだけだ」と言った。久遲布禮と恩率彌縢利は、心底恐れおののいて、夫々帰って王を呼んだ。このため、新羅は、あらためてその上臣の伊叱夫禮智干岐を派遣して、兵士三千人を率いて、やって来て詔勅を聞かせろと求めた。毛野臣は、遠くに護衛の武器で取り囲んで、兵士が数千人居るのを見て、熊川から、任那の己叱己利城に入った。伊叱夫禮智干岐は、多多羅原に宿営して、敢えて帰らないで三月待った。しきりに詔勅を聞かせるよう求めた。ついに宣下しなかった。伊叱夫禮智が將いた兵士等は、集落で食べ物を求めて、毛野臣の従者の河内の馬飼の首の御狩の前を共に過ぎようとした。御狩が、他人の門に入って隱れ、食べ物を求める者が通り過ぎるのを待って、こぶしを握って叫んだ。物乞いを見て「恐れ敬って三月も待って、詔勅の主旨を聞こうと待っていたが、未だに、宣下が無い。詔勅を聞く使者を悩ますのは、騙して上臣を成敗することと知れ」と言った。それで見たことを詳しく上臣に話した。上臣は、四村を掠め取って、残らず人や物を持ち去って本国に入った。ある人が、「多多羅達の四村を奪われたのは、毛野臣の失敗だ」と言った。】とあり、標準陰暦と合致する。
前項で、秦王国が朝鮮経営を倭国から取り戻そうとしたと記述したが、朝鮮は、中国史書の『後漢書』に「韓有三種皆古之辰國也馬韓最大共立其種為辰王・・・馬韓諸國邑各以一人主祭天神號為天君・・・馬韓人復自立為辰王・・・辰韓耆老自言秦之亡人・・・有似秦語,故或名之為秦韓
弁辰與辰韓雜居・・・其國近倭」と高句麗の地は郡や衛氏によって経営されていたが、南部の三韓は昔の辰国に経営されていたとしている。
辰国を中国の秦と勘違いしているようだが、辰韓と記述して秦が支配は変で、秦語は中国語ではないのか、秦人は中国人ではないのか、訛りなら辰韓語、俗称なら辰韓人で、天神を祀り天君と神主すなわち王がよばれていて、弁辰與辰韓雜居していて倭人に近いと言っているのだから辰国は倭人のくにで、領地が倭に近いのなら馬韓も倭に近い。
そして、『三國志』も「辰韓者古之辰國也・・・馬韓信鬼神國邑各立一人主祭天神名之天君・・・弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王」と同様で、『晉書』も「馬韓・・・國邑各立一人主祭天神謂爲天君・・・辰韓在馬韓之東自言秦之亡人避役入韓韓割東界以居之立城柵言語有類秦人由是或謂之爲秦韓・・・弁辰亦十二國・・・皆屬於辰韓」と『後漢書』とほぼ同じで、300年代までこの状態だった。
この、秦国は『隋書』の秦王国で物部王朝の国名で辰国は尾張王朝で大人国から続く系譜、東鯷国は建(武)氏の神王朝、君子国から続く系譜で、日本の王朝の変遷である。
この間、倭は新羅に対しては紀元前50年赫居世八年の「倭人行兵,欲犯邊」から500年炤知麻立干二十二年の「春三月倭人攻陷長峰鎭」まで侵略と友好を繰り返したが、急に665年文武王五年の「交通倭國」まで途絶えた。
それに対して、百済は397年阿莘王六年に「夏五月王與倭國結好以太子腆支爲質」と人質を差し出すことから国交が始まり、428年毗有王二年の「春二月・・・倭國使至從者五十人」から記述されていなくて、608年武王九年の「春三月遣使入隋朝貢隋文林郞裴淸奉使倭國經我國南路」と使者が立ち寄ったことを記述して、653年義慈王十三年の「秋八月王與倭國通好」とずっと友好関係である。
すなわち、百済は397年の人質を除いて倭と友好的で、逆に言えば畿内の秦王国までは百済と友好的ではなく、それに対して、新羅は500年まで倭と対立し扶桑国まで友好的だったことが解り、その後、分裂した蘇我氏の倭国と友好関係を続け、白村江の記事でも百済と友好を結んだから戦ったのである。
すなわち、神功皇后の新羅征伐は、穴門豐浦宮の王と香椎の王が行った尾張・物部王朝の日本とは異なる国が戦ったのであり、香椎宮の王は倭で穴門豐浦宮の王は襲津彦達葛城王朝軍で、応神天皇十四年「臣領己國之人夫百廿縣而歸化然因新羅人之拒皆留加羅國爰遣葛城襲津彦」
とこの応神14年は390年即位の応神14年403年若しくは396年即位の応神14年で409年にあたり、397年の太子腆支の人質は神功皇后の征韓の結果で、胎中の天皇は396年即位の応神天皇の可能性が高い。
物部王朝は古来の朝鮮経営を取り戻そうと、物部系の穗積臣押山や物部氏の分王朝の伊勢遺跡のある近江の毛野臣が朝鮮経営に当たったが大失敗してしまい、蘇我氏の倭国に朝鮮外交を取り戻されてしまったのだろう。
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