『日本書紀』慶長版は
「秋九月巨勢男人大臣薨二十四年春二月丁未朔詔曰自磐余彥之帝水間城之王皆頼博物之臣明哲之佐故道臣陳謨而神日本以盛大彥申略而膽瓊殖用隆及乎繼體之君欲立中興之功者曷嘗不頼賢哲之謨謀乎爰降小泊瀬天皇之王天下幸承前聖隆乎(平)日久俗漸蔽而不寤政浸衰而不改但湏其人各以類進有大略者不問其所短有髙才者不非其所失故獲奉宗廟不危社稷由
是觀之豈非明佐朕承帝業於今二十四年天下清泰內外無虞土脉膏腴穀稼有實竊恐元元由斯生俗藉此成驕故令人舉廉節宣揚大道流通鴻化能官之事自古爲難爰曁朕身豈不愼歟秋九月任那使奏云毛野臣遂於久斯牟羅起造舍宅淹留二歲懶聽?(政)焉爰以日本人與任那人頻以兒息諍訟難決(定)元無能判毛野臣樂置誓湯曰實者不爛虛者必爛是以投湯爛死者衆又殺吉備韓子那多利斯布利恒惱人民終無和解於」
【秋九月に、巨勢の男人大臣が薨じた。二十四年の春二月の丁未が朔の日に、「磐余彦の帝から水間城の王までは、皆、物事をよく知っている臣下が、聡明で物事の道理に通じていたので助けを求めた。それで、道臣が国家経営の方法を考え示して天神を祀る日本が栄えた。大彦が考えを言って膽瓊殖がそれを用いて隆盛した。繼體の君になって、中興の功績を成し遂げるには、どの人物の賢明で道理をわきまえた方法に頼ればよいのか。ここで小泊瀬天皇の天下の時に王として即位して、幸なことに以前の聖者から受け継いで、世の中が栄えて平和な日が続いている。しかし、世の中はだんだん暗雲が垂れ込めているが目覚めようとせず、政治は非力に慣れて改めようとしない。ただその似た者同士が話て採用するだけだ。おおざっぱな者は、その足りないところを問おうともしない。才能ある者はその誤りを認めなかった。それでも、わたしが王朝の徴の祠を得て、国家を危うくしていないようだが、どうして私には確かな助けが無いのか。わたしが皇帝に就任して、もう二十四年たった。天下は清々しく安らかで、内外に何の懸念も無い。土地はよく肥え、穀物は良く実った。人知れず恐れているのは万民がこれにかこつけていつもの事と思い上がってしまうことだ。人に決まりや節目を伝え、人の行うべき正しい道を広く世の中にはっきりと指し示し、天子の大きな教えを広く行い、勤めを成し遂げることは昔から困難だ。この度私が帝となったからには控えずにいられようか」と詔勅した。秋九月に、任那の使者が「毛野臣が、とうとう久斯牟羅で、御殿を造って、滞在して二年経っても、人の政策を聞くことを怠った。それで日本人と任那人と子供の争いごとが、頻繁に起こって決着が難しいので、最初から判断しない。毛野臣が、くかたちで簡単に仕置きして、『本当のことを言う者は爛れず。嘘つきはきっと爛れる』と言う。このように、熱湯の中に投げ入れられて爛れ死ぬ者がたくさんいる。また吉備の韓子の那多利と斯布利を殺して、いつものように人民が大騒動になったが、とうとう和解できませんでした」と奏上した。】とあり、標準陰暦と合致する。
即位して、遷都もした天皇が何の理由もなしに大演説するのはとても異様で、私は、継体建元から24年後の540年の欽明天皇元年で「遷都倭國磯城郡磯城嶋仍號爲磯城嶋金刺宮」と遷都して明要に改元した年なら、継体・安閑・宣化と物部物部麁鹿火との共同統治から脱した時の、補佐する人がいなくても、物部目天皇は十分やっていけると宣言したと思われる。
内容は、神武天皇から崇神天皇までは自分たちの先祖の物部氏が大連として天皇を助け、崇神天皇は物部氏が天皇になったが、それを尾張氏が助け、神日本と記述したのは、本来は誉田天皇と資料が残っていたのだろうが、それを書き換えて、意味不明なものにしてしまったが、道臣と神武天皇の関係は既に述べた。
日向国の葛城氏になる襲津彦が道臣の助けで畿内の葛城に侵入できて、婿の建内宿禰が天皇となり、葛城の子たちが継承し、助けた道臣は室屋大連と呼ばれ、巨勢氏が天皇になった時には金村大連が助けた。
ここで、継体の君と記述されるが、元号に継体があり、当然前後関係は、自らを継体帝と先に呼んで、元号を継体としたのであって、後から継体としたのなら、このような文中に記述せず、崩じたときに、尊んで継体と名付けたとすればよく、逆に、先に継体号を使っていたのなら、途中で継体建元でなくもっと前から元号が『二中歴』に残っているはずだ。
『二中歴』には紀元前から元号があったと述べており、お手本の中国は帝号を持っているのだから、『
舊事本紀』に記述されていることからも『日本書紀』の綏靖天皇即位前に「今汝特挺神武自誅元惡」のように連綿と漢風諡号が存在し淡海三船が選定したものではない可能性がある。
そして、この天皇は武烈天皇の時に王となったと記述していて、継体元年には武烈天皇が存命であった可能性が高く、継体24年530年に武烈天皇が崩じ、その天皇が巨勢男人だった可能性が高い。
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