『日本書紀』慶長版は
「二月辛卯朔甲午大伴金村大連乃跪上天子鏡剱璽符再拜男大迹天皇謝曰子民治國重事也寡人不才不足以稱願請𢌞慮擇賢者寡人不敢當大伴大連伏地固請男大迹天皇西向讓者三南向讓者再大伴大連等皆曰臣伏計之大王<??ここから違う場所に誤入して記述されている??>子民治國最宜稱臣等爲宗廟社稷計不敢忽幸藉衆願乞垂聽納男大迹天皇曰大臣大連將相諸臣咸推寡人寡人敢不乖乃受璽符是日即天皇位以大伴金村大連爲大連許勢男人大臣爲大臣物部麁鹿火大連爲大連並如故是以大臣大連等各依職位焉庚子大伴大連奏請曰臣聞前王之宰世也非維城之固無以鎮其乾坤非掖庭之親無以繼其趺萼是故白髮天皇無嗣遣臣祖父大連室屋毎州安置三種白髮部以留後世之名嗟夫可不愴歟請立手白香皇女納爲皇后遣神祗伯等敬祭神祗求天皇息允荅民望天皇曰可矣」
【二月の朔が辛卯の甲午の日に、大伴の金村の大連は、跪いて天子の鏡と剱と璽と書付を上程してもう一度お辞儀した。男大迹天皇は、「人民を子として国を治めることは、重大なことだ。わたしごときには才能もなく、天皇を名乗るに値しない。お願いだ、よく回りを見て賢者を選んでほしい。わたしごときはどう考えても当たらない」と断った。大伴の大連は、地面に頭を押し付けてかたくなに願った。男大迹天皇は、西側にいる者に皇位を譲ると言うこと三度、南側にいる者に皇位を譲るともう一度言った。大伴の大連達は皆「私達が首を垂れて対象者を数えたが、大王が人民を子として国を治めるのに、最も適している。私達は、天皇の祖先の霊をまつり、国家の経営の為に、考えたことをおろそかにしないでほしい。幸いなことに皆が即位を願っているので、出来ましたら聞き入れてください」と言った。男大迹天皇は「大臣と大連と将軍と宰相と諸臣ら、残らずわたくしごときを推してくれる。どうしてわたしごときがさからえようか」と言って、璽と書付を受けた。この日に、天皇に即位した。大伴の金村の大連を大連とし、許勢の男人の大臣を大臣とし、物部の麁鹿火の大連を大連としたことは、みな前のとおりだ。それで、大臣と大連達は、それぞれ、その位どおりの仕事をした。庚子の日に、大伴の大連は「私が聞いたところ、前の王の世が家臣の長となったが、都を継ぎ守れず、その天神や地神をやすらかにできなかった。後宮の中心が無く、御殿を継ぐ者がいない。それで、白髮天皇は、皇嗣が無かったので、私の祖父の大伴の大連の室屋に、国毎に三種の白髮部を置いて、後世に名を残した。ああ、なんと痛ましい事でしょうか。お願いですから、手白香の皇女を召し入れて皇后に立てて、神祇伯達を派遣して、神祇を敬い祀って、天皇の子息が出来るよう願い、人民の望みに答てほしい」と願い奏上した。天皇は「わかった」と言った。】とあり、標準陰暦と合致する。
大王が天皇の璽を受け取り、天皇に即位したことを記述し、王朝が変わった事を表明したが、この、王朝交代は扶桑国の巨勢王朝から物部氏の秦王国王朝への交代で、大王と呼べるのは許勢男人大臣か蘇我稻目か物部目大臣で皇太子か皇太子と同等の人物以外大王とは呼んでいない。
この中で、許勢男人大臣は扶桑国の最後の皇太子で天皇の璽を渡す側の人物、蘇我稲目は馬子の側の大王で倭国王、残るは物部目大臣となり実際の継体天皇で、『二中歴』の「継体五年 元丁酉」と517年に即位する天皇である。
目大連は『日本書紀』の雄略天皇即位前紀に「平群臣眞鳥爲大臣以大伴連室屋物部連目爲大連」と雄略天皇の時の大連としているが、『舊事本紀』では「弟物部目連公此連公継體天皇御世為大連奉齋神宮」と継体天皇の時の大連で「物部尾輿連公為大連物部目連公為大臣」と物部尾輿と同じ時代で、『日本書紀』の欽明紀の「大伴金村大連・物部尾輿大連爲大連及蘇我稻目宿禰大臣爲大臣」とそれを裏付けている。
ちなみに、雄略天皇時の大連は『舊事本紀』では「物部布都久留連公此連公大長谷朝御世為大連」と布都久留が大連、その弟が物部目で「弟物部目大連公此連公磐余甕栗宮御宇天皇御世為連奉齋」と清寧天皇の時に大連としている。
しかし、実際の清寧天皇の時代は20年程度後の時代で、この頃は倭国・文身国・大漢国・扶桑国と『梁書』が記述して分裂状態だったことが解っていて、私は倭国が後の俀国で武・磐井、
文身国が後の倭国で蘇我稻目、
大漢国王が「なか国」王朝・平群王朝を滅ぼした大伴金村、扶桑国が後の秦王国で巨勢王朝を滅ぼした物部目・物部麁鹿火連合ではないか、もちろん、王朝は長男が襲名するので複数の親子関係がある。
なお、この項の後半が別の位置に記述されているが、これは、慶長版の制作者が余分な思惑を排除して、淡々と版木を作ったことが解り、誠実さがよくわかり、後代の自分の考えが一番という奢った考えで出版した人々との差を感じる。
これら、奢った人々が歴史を捏造し(本居宣長・新井白石をはじめとする)、権力を後ろ盾に世間にその史観を拡散して、権力を後ろ盾にした教科書の歴史とそれに対抗するやはり、史書を間違いと奢った史観から歴史を捏造してご飯を食べている人たちが跋扈して、史書などは後代適当に書いたものだから信じるに値しないと、何物にも依拠しない妄想とその人物の高名さを背景に荒唐無稽な歴史を真実の歴史としている。
しかし、本来は残された史書は原則真実を記述していると考え、史書の矛盾を検証して、史書の性格を導き出して、真の歴史を構築することが科学的な究明姿勢だ。
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