2020年4月17日金曜日

最終兵器の目 継体天皇7

 『日本書紀』慶長版は
八年春正月太子妃春日皇女晨朝晏出有異於常太子意疑入殿而見妃臥床涕泣惋痛不能自勝太子恠問曰今且涕泣有何恨乎妃曰非餘事也唯妾所悲者飛天之鳥爲愛養兒樹巓作樔其愛深矣伏地之?()爲護衞子土中作窟其護厚焉乃至於人豈得无慮無嗣之恨方鍾太子妾名隨絶於是太子感痛而奏天皇詔曰朕子麻呂古汝妃之詞深稱於理安得空爾無荅慰乎宜賜匝布屯倉表妃名於萬代三月伴跛築城於子呑帶沙而連滿奚置烽候邸閣以備日本復築城於爾列比麻湏比而絙麻且奚推封聚士卒兵器以逼新羅駈略子女剥掠村邑凶勢所加罕有遺類夫暴虐奢侈惱害侵凌誅殺尤多不可詳載九年春二月甲戌朔丁丑百濟使者文貴將軍等請罷仍勅副物部連遣罷歸之是月到于沙都嶋傳聞伴跛人懷恨銜毒恃強縱虐故物部連卒舟師五百直詣帶沙江文貴將軍自新羅去夏四月物部連於帶沙江停住六日伴跛興師往伐逼晩衣裳劫掠所齎盡焼帷幕物部連等怖畏逃遁僅存身命泊汶慕羅十年夏五月百濟遣前部木?(刕・州)不麻甲背迎勞物部連等於已汶而引導入國群臣各出衣裳斧鐵帛布助加國物積置朝庭慰問慇懃賞祿優節秋九月百濟遺州利即次將軍副物部連來謝賜巳汶之地別貢五經博士漢髙安茂請代博士段楊爾依請代戊寅百濟遺灼莫古將軍日本斯那奴阿比多副髙麗使安定等來朝結好十二年春三月丙辰朔甲子遷都弟國十七年夏五月百濟國王武寧薨十八年春正月百濟太子明即位二十年秋九月丁酉朔巳酉遷都磐余玉穗
【八年の春正月に、太子の妃の春日皇女が、朝遅く出てきて、いつもと違うことが有った。太子は、真意を疑いつつ、御殿に入って見た。妃は、床に臥して涙を流して泣いて、嘆いて心を傷めなき止むことが無かった。太子はおかしく思って「今朝涙を流して泣いているのは何を悔やしがってのことか」と聞いた。妃が「些細なことではありません。ただ私が悲んでいるのは、天に飛んでいく鳥も子を大切に育てる為に、樹のてっぺんに巣を作って、その愛情を深くする。地を這いまわる虫達も子を付き添って守る為に、土の中に穴を作って、その護を手厚くする。それで人に至っては、どうして思慮も無く出来ましょうか。跡取りが無く悔しいが、その憐れみは太子に集中する。それで、私の名は忘れられてしまう」と言った。そこで、太子が身にしみて感じて、天皇に奏上した。「私の子の麻呂古よ、お前の妃の言葉は、とても理屈に適っている。どうしてどうでもよいと思って慰めて答えてやらないのか。匝布の屯倉を与えて、妃の名を何代も残せ」と詔勅した。三月に、伴跛が、城を子呑・帶沙に築いて、滿奚に付けて、狼煙を上げる陣を置いて、日本に備えた。また城を爾列比と麻須比に築いて、麻且奚と推封に絙す (?交通を守った)。兵士と武器を集めて、新羅に迫った。子女を、馬を走らせて掠め取り、村邑を剥すようにうばい取った。極悪の勢力が襲った所は、暴虐と贅沢で残った物がほとんど無かった。侵略されて大変な被害が有り、罪をとがめて殺された者がとても多かったが、詳しくは書けない。九年の春二月の朔が甲戌の丁丑の日に、百済の使者の文貴將軍達が帰りたいと要請した。それで詔勅して、物部の連と一緒に、帰らせた。(『百濟本記』には物部至至連)この月に、沙都の嶋に着いたら、伴跛の人が、恨み傷ついて、強い軍隊を頼りにむごいことをやりたい放題だと人伝に聞いた。それで、物部の連は、軍艦五百を率いて、すぐに帶沙の江に着いた。文貴將軍が、新羅から去った。夏四月に、物部の連が、帶沙の江に停泊して六日後、伴跛が、軍を興して帶沙に来て伐った。迫って来て衣裳を脱がせて、持って来た物を脅して奪って、本陣でを残らず焼いた。物部の連達は、怯え恐れて逃げ出した。命からがら、汶慕羅に停泊出来た。十年の夏五月に、百済は、前部木?(刕州)不麻甲背を派遣して、物部の連達を己汶に労い迎えて、国に導き入れた。役人は、それぞれ衣裳や鉄斧や絹布を出して、国の特産物を付け加えて、朝庭へ貢ぐ荷物に積んで置いた。お見舞いは丁寧で礼儀正しく、ほうびは当を得てすぐれていた。秋九月に、百済は州利即次將軍を派遣して、物部の連と一緒にやって来て、己汶の土地を貰ったお礼をした。別に五經博士の漢高安茂を貢上して、博士段楊爾と交代するように願った。願い通りに交代させた。戊寅の日に、百済は、灼莫古將軍と日本の斯那奴阿比多を派遣して、高麗の使者安定等と一緒に、来朝して友好の約束を結んだ。
十二年の春三月の朔が丙辰の甲子の日に、都を弟国に遷した。十七年の夏五月に、百済王の武寧が薨じた。十八年の春正月に、百済の太子明が即位した。二十年の秋九月の朔が丁酉の己酉の日に、磐余の玉穗に都を遷した。】とあり、十二年三月丙辰朔は標準陰暦と合致するが、二十年九月丁酉朔は合致せず、407年か464年が合致し、これまでの検証では407年が妥当である。
或る本で7年遷都とあるのは、「十二年春三月丙辰朔甲子遷都弟國」と弟国の宮にいる天皇7年の意味と考えられ、弟国へ遷都したのは継体年号建元の翌年で、磐余玉穗へ遷都したのは正和元年と改元した年に当たる。
また、百済と新羅の関係する戦乱は、『三国史記』の403年の百済阿莘王に「十二年春二月倭國使者至王迎勞之特厚秋七月遣兵侵新羅邊境」 と新羅の實聖尼師今に「二年・・・秋七月 百濟侵邊が対応していそうで、ここの物部氏に対応する人物が「百濟本記云物部至至連」としている。
この人物は、『舊事本紀』に「九世孫物部多遅麻連・・・弟物部竺志連公奄智蘰連等祖」、「十一世孫物部真掠連公・・・弟物部竺志連公新家連等祖」と世代を超えた同一名の竺志連が存在し、至至連と音が似ていて、しかも、筑紫に関係する人物で、倭国と密接な関係が有りそうである。
物部目連が同じように「磐余甕栗宮御宇天皇御世」と「継體天皇御世為大連」とあるが「磯城嶋宮御宇天皇御世」と同じ世代に記述され子供が「飛鳥浄御原宮御宇天皇御世・・・物部目大連女豊媛」と化け物のように記述されるが、これが、目の連の襲名すなわち宮の相続であり、竺志連も相続で、大足彦の頃(葛城王朝の大足彦)から襲名している人物が継体天皇の時代まで続いていたことを示している。
『三国史記』の百済の武寧王517年に「十六年春三月戊辰朔日有食之」と記述されているが、この日は壬戌で三月戊辰朔は516年と一年ずれていて、武寧王は「二十三年・・・夏五月王薨」と524年に薨じたことになるが、1年ずれているのだから523年に薨じ、継体天皇十七年記事は正しいことがわかり、東城王が23年12月に薨じたが、武寧王元年が数日あっただけということだ。
朝鮮の日干支は日本と交流中のみ日食関係で記述されるのがほとんどで、2~3例のみ日干支が記述されるが、それ以外は月が最小単位で、新羅は201年まで、百済は592年まで、高句麗
は612年までで、新羅は572年に「冬十月二十日」と日付を記述し、百済も633年、高句麗も643年に日付の記述を開始したが、中国は日干支を続け、日本は朔付きの日干支を記述し続けた。
すなわち、朝鮮の朔や晦の日干支は朝鮮以外の資料による記述の可能性が高く、日干支の朔の当てはめ間違いも3回あるだけだ。

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