2020年5月1日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十八 安閑天皇1

 『日本書紀』慶長版は
勾大兄廣國押武金日天皇男大迹天皇長子也母曰目子媛是天皇爲人墻宇凝嵈(?)不可得窺桓桓寛大有人君之量二十五年春二月辛丑朔丁未男大迹天皇立大兄爲天皇即日男大迹天皇崩是月以大伴大連物部麁鹿火大連爲大連並如故元年春正月遷都于大倭國勾金橋因爲宮號三月癸未朔戊子有司爲天皇納采億計天皇女春日山田皇女爲皇后別立三妃立許勢男人大臣女紗手媛紗手媛弟香香有媛物部木蓮子大蓮女宅媛夏四月癸丑朔內膳卿膳臣大麻呂奉勅遣使求珠伊甚伊甚國造等詣京遲晩踰時不進膳臣大麻呂大怒收縛國造等推問所由國造稚子直等恐懼逃匿後宮內寢春日皇后不知直入驚駭而顚慚愧無已稚子直等兼坐闌入罪當科重謹專爲皇后獻伊甚屯倉請贖闌入之罪因定伊甚屯倉今分爲郡属上總國五月百濟遣下部脩德嫡德孫上部都德巳州已婁等來貢常調別上表秋七月辛巳朔詔曰皇后雖體同天子而內外之名殊隔亦可以死(?)屯倉之地式樹椒庭後代遺迹逎差勅使簡擇良田勅使奉勅宣於大河內直味張曰今汝宜奉進膏腴雌雉田味張忽然恡惜欺誑勅使曰此田者天旱難漑水潦易浸費功極多收獲甚少勅使依言服命無隱
【勾大兄廣國押武金日天皇は、男大迹天皇の長子だ。母を目子媛という。この天皇の人と為りは、屋根や垣根が急な山の様に思えるほど窺い知れず、強くいさましくて度量が大きくて、人々の君主としての器量が有った。二十五年の春二月の朔が辛丑の丁未の日に、男大迹天皇が、大兄を天皇に即位させた。その日に、男大迹天皇が崩じた。この月に、大伴の大連をと、物部の麁鹿火の大連を大連としたのは共に以前の通りだ。元年の春正月に、都を大倭國の勾の金橋に遷し宮とした。三月の朔が癸未の戊子の日に、役人が、天皇の為に、億計天皇の娘の春日の山田皇女と結納を取り交わし皇后とした。別に三人の妃を立てた。許勢の男人大臣の娘の紗手媛、紗手媛の妹の香香有媛、物部の木蓮子の大連の娘の宅媛を立てた。夏四月の癸丑が朔の日に、内膳卿の膳の臣の大麻呂が、詔勅を受けて、使者を派遣して珠を伊甚で探した。伊甚の国造達は、京に遣ってくるのが遅すぎて、期限を超えるまで献上出来なかった。膳の臣の大麻呂は、とても怒って、国造等達閉じ込めて縛り上げて、どうして遅れたかを問いただした。国造の稚子の直達が、 おそれかしこまって、後宮の寝床まで逃げてきて隠れた。春日皇后は、すぐに状況を把握できず、驚いてみだれてひっくり返ってしまった。深く恥じることはやむを得なかった。稚子の直達は、もう一つの許可なくむやみにはいり込む罪を追加されて、重罪に当たった。それで、謹んで皇后だけのために、伊甚の屯倉を献上して、むやみにはいり込んだ罪を償わせてほしいと言った。それで伊甚の屯倉を定めた。今は分割して郡とし、上総国に所属させた。五月に、百済が、下部の脩徳と嫡徳孫と上部の都徳己州己婁達を派遣して、やって来ていつもの年貢を貢上した。その他に上表文も提出した。秋七月の辛巳が朔の日に、「皇后が、天子と同体と言っても、内々の呼び名と公の名は著しく隔たっている。また屯倉の地を充ててそれを皇后の宮にして後世に残すべきだ」と詔勅した。それで、勅使に指示して、良田を選び出した。勅使は、詔勅を受けて、大河内の直の味張に「今すぐお前は雉が良く育つ田を奉献しなさい」と宣下した。味張は、急に物惜しみして、勅使を「この田は、恵みの雨を注ぎ込むのが難しくて、雨水がすぐにしみこんでしまう。いくらたくさん働いても、収穫はとても少ない」とあざむきたぶらかした。勅使は、言葉のまゝ何も隠さないで復命した。】とあり、二十五年春二月辛丑朔は531年1月30日で1月が小の月なら合致し、三月癸未朔は534年3月1日、四月癸丑朔も534年4月1日、七月辛巳朔は534年6月30日で6月が小の月なら7月1日となって、ここでも継体天皇の崩御日に矛盾が出来てしまっている。
2月に即位した天皇が1月に都を遷せるわけがなく、しかも、年が異なり、他の王の内容が混入していることがよく解り、『舊事本紀』もまったく同じで、無批判に同じ資料を写し取っている証拠となっていて、検証していればどちらかが間違いを指摘している。
いままで、あまり書かれなかった皇位継承の方法を記述しているが、その意味は、長男ならこの記述は必要なく、531年に「日本天皇及太子皇子倶崩薨」と巨勢王朝の天皇と皇太子と皇子の多くが崩薨し、皇太子の長男が男人で20歳に達していなかったので生き残った皇子の一人が天皇に即位して男人が皇太子すなわち大臣になったのではないかと私は考えている。
大臣は天皇の家系でもなく、皇后も天皇の家系でない人物が王朝を奪取した人物、もしくは、天皇の後継者が皇位を他王朝に奪取された人物が呼ばれる称号で、天皇の家系でなかった武内宿禰は皇后に尾張王朝の八坂入媛を皇后に迎えて応神天皇となり、葛城王朝が始まり、葛城王朝は圓大臣で終焉し、武内宿禰の子で物部王朝の八田皇女を迎えて平郡王朝が始まり、鮪で終焉し、葛城氏の荑媛の孫の巨勢王朝が始まり、男人大臣で終焉したのである。

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