『日本書紀』慶長版は
「冬十月庚戌朔甲子天皇勅大伴大連金村曰朕納四妻至今無嗣萬歲之後朕名絶矣大伴伯父今作何計毎念於茲憂慮何已大伴大連金村奏曰亦臣所憂也夫我國家之王天下者不論有嗣無嗣要湏因物爲名請爲皇后次妃建立屯倉之地使留後代令顯前迹詔曰可矣宜早安置大伴大連金村奏稱宜以小墾田屯倉與毎國田部給貺紗手媛以櫻井屯倉與毎國田部給賜香香有媛以難波屯倉與毎郡钁丁給貺宅媛以示於後式觀乎昔詔曰依奏施行閏十二月己卯朔壬午行幸於三嶋大伴大連金村從焉天皇使大伴大連問良田於縣主飯粒縣主飯粒慶悅無限謹敬盡誠仍奉獻上御野下御野上桑原下桑原幷竹村之地元合肆拾町大伴大連奉勅宣曰率土之下莫匪王封普天之上莫匪王域故元(先)天皇建顯號垂鴻名廣大配乎乾坤光華象乎日月長駕遠撫横逸乎都外瑩鏡區域死(充)塞乎無垠上冠九垓旁濟八表制禮以告成功作樂以彰治定福應允致祥慶符合於往歲矣今汝味張率土幽微百姓忽爾奉惜王地輕背使乎宣旨味張自今以後勿預郡司於是縣主飯粒喜懼交懷廼以其子鳥樹獻大連爲僮竪焉於是大河內直味張恐畏求悔伏地汗流啓大連曰愚蒙百姓罪當萬死伏願毎郡以钁丁春時五百丁秋時五百丁奉獻天皇子孫不絶藉此祈生永爲鑒戒別以狹井田六町賂大伴大連蓋三嶋竹村屯倉者以河內縣部曲爲田部之元於是乎起」
【冬十月の朔が庚戌の甲子の日に、天皇は、大伴の大連の金村に「私は、四人の妻を迎え入れて、今になるまで跡継ぎがいない。長い年月の後に私の名は忘れ去られてしまう。大伴の伯父よ、何か方策が無いかいつも考えているが、心配しても何ともならない」と詔勅した。大伴の大連の金村は、「私もまた私たちの国を治める王のことを憂慮しているところです。天下は、後継者の有り無しを問わず、名を残す物が無くてはなりません。お願いですから皇后や次妃の為に、屯倉の地を建立して、後代に名を留めて、前代からの足跡を残しましょう」と奏上した。「解った。すみやかに置きなさい」と詔勅した。大伴の大連の金村は、詔勅を聞いて「小墾田の屯倉と国ごとの田部とを、紗手媛にあてがいなさい。櫻井の屯倉と国ごとの田部とを、香香有媛にあてがった。難波の屯倉と郡ごとの耕作にあたる者を、宅媛にあてがった。これで後代に示して昔に存在したことが解るようにしなさい」と言って宣下した。「言った通りに実行しなさい」と詔勅した。閏十二月の朔が己卯の壬午の日に、三嶋に行幸した。大伴の大連の金村が従った。天皇は、大伴の大連を使者として、良田を縣主の飯粒に聞いた。縣主の飯粒は、よろこばしいことこの上なかったので謹で敬い誠意を尽くした。それで上の御野・下の御野・上の桑原・下の桑原併せて竹村の地を全て合わせて肆拾町を奉献した。大伴の大連が詔勅を聞いて、「国家の辺地と言っても、王が与えた領地だ。天がおおう限りの土地の上は、全て王の領域だ。それで、先の天皇は、帝号を建元して名声を教え示して、広く大きく天地に行き届き、美しく光って日月のようだ。長く馬に乗って遠くまでいたわり、都の外を思うように領域を明るく照らし、果てしなく満ちおおうた。上は天地のはて(垓は京の1万倍:兆・京・垓・・・)から広く全世界に行きわたる。きまりを取り決めて仕事をするように言いつけて、楽しみを創ったので世が落ち着いたのはあきらかだ。幸せを求める声に十分こたえたので、年をとっても、よろこびめでたいことと対応する。今、味張よお前は、辺地のもの静かな名も無いような百姓だ。それなのに急に、王の土地を献上するのを惜しんで、使者の宣下の内容を侮って叛いた。味張は、今より後、郡司の任ではない」と宣下した。それで縣主の飯粒は、心から喜び畏まって、それでその子の鳥樹を大連に献上して、下僕の小僧とした。それで、大河内の直の味張は、おそれ
かしこしこまるって後悔して、地面に土下座して考え直すよう訴えた。大連に「おろかで道理がわからない百姓の罪は萬死に値する。土下座してお願いします。郡ごとに、田地の耕作者を春耕す時に男子五百人、秋耕す時に男子五百人を、天皇に奉献して、子孫が絶えないようにしてください。これで命を助けて貰えれば、ずっと戒めとします」と申しひらきした。それとは別に狹井田の六町を、大伴の大連に賄賂として贈った。思うに三嶋の竹村の屯倉に、河内の縣の私有民を以て耕作した者とすることの最初がこれである。】とあるが、十月庚戌朔は534年で標準陰暦と合致し、閏十二月己卯朔は535年1月2日で、534年12月は小の月で、大の月なら1月1日となり、計算では見かけ上の太陽の運行が一定でないため535年2月が閏月、そして、534年から535年は節気が晦日に計算され、また、閏月は大小の月で変化が大きく、江戸時代は閏月が藩毎でまちまちだった事実が有る。
天皇が大伴大連金村に「大伴伯父」と呼び掛けているが、天皇の伯父の大連は
物部の木蓮子大連で仁賢天皇の時の大連だが、目大連の子の物部荒山連と同世代と記述されているので、主語も対象者も異なるか、大伴大連が伯父である王、すなわち、葛城氏の神武東征で活躍した大伴氏を伯父で配下とする巨勢王朝の話であるかのどちらかである。
「天皇建顯號」に帝号・漢風諡号を始めたと訳したが、それ以外でどのような名を特別に公表したか理解できず、文中に「繼體之君」と会話の部分に記述されているのだから、実際に使われていた可能性が高い。
そして、大河内縣主味張直は生きるか死ぬか、一家殲滅の危機にある人物が、大伴大連に賄賂を贈っただけで、宣化天皇の姻戚に出世し矛盾があるが、このことから、宣化天皇は物部王朝ではない法によって統治する別の王朝(武烈紀「長好刑理法令分明」)の可能性が高く、摂津は後に物部守屋の領地となったのだから、この事件がきっかけで物部王朝の配下となったと考えられる。
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