『日本書紀』慶長版は
「天國排開廣庭天皇男大迹天皇嫡子也母曰手白香皇后天皇愛之常置左右天皇幼時夢有人云天皇寵愛秦大津父者及壯大必有天下寐驚遣使普求得自山背國紀伊郡深草里姓字果如所夢於是忻喜遍身歎未曾夢乃告之曰汝有何事荅云無也但臣向伊勢商價來還山逢二狼相鬪汙血乃下馬洗漱口手祈請曰汝是貴神而樂麁行儻逢獵士見禽尤速乃抑止相鬪拭洗血毛遂遣放之倶令全命天皇曰必此報也乃令近侍優寵日新大致饒富及至踐祚拜大藏省四年冬十月武小廣國押盾天皇崩皇子天國排開廣庭天皇令群臣曰余幼年淺識未閑政事山田皇后明閑百揆請就
而决山田皇后怖謝曰妾蒙恩寵山海詎同萬機之難婦女安預今皇子者敬老慈少禮下賢者日中不食以待士加以幼而穎脱早擅嘉聲性是寛和務存矜宥請諸臣等早令臨登位先臨天下冬十二月庚辰朔甲申天國排開廣庭皇子即天皇位時年若干尊皇后曰皇太后大伴金村大連物部尾輿大連爲大連及蘇我稻目宿祢大臣爲大臣並如故」
【天國排開廣庭天皇は、男大迹天皇の嫡子だ。母を手白香皇后という。男大迹天皇は、天皇をかわいがって、いつも、かたわらに連れて歩いた。天皇が幼いころに、夢に人が出てきて、「天皇は、秦の大津父という者を寵愛すれば、成長した時に、きっと天下を手にする」と言った。夢を見て驚いて使者を派遣して広く隅々まで探して、山背の国の紀の郡の深草の里で見つけた。氏も名も、夢で思い描いた通りだった。それで、
とてもよろこんで、体全体を使って見たことのない夢のようだと感心した。それで「お前にも、何かあったのか」と夢見を告げた。「何もありません。ただ、私が、伊勢に向って、値打ちのある物を商って帰って来た時に、山で互いに闘って血で汚れた二匹の狼に遭遇した。それで、馬から降りて口や手を洗い漱いで、『あなたは貴い神だが、荒々しい行いを喜ぶ。もし漁師に出会ったら、真っ先に生け捕られるだろう』と祈った。すると、戦いを止めたので、血の付いた毛を洗いい拭って、二匹とも逃がして命を救ってやった」と答えた。天皇は「きっとその報いだろう」といった。それでとても気に入って天皇の傍に仕えさせたら、日に日にとても豊かなになった。皇位を受け継いだ時に、大藏省の官位をさずけた。四年の冬十月に、武小廣國押盾天皇が崩じた。皇子の天國排開廣庭天皇は、群臣に、「私は、年が若くて見識が狭くて、まだ政事がおろそかとなってしまう。山田の皇后は、疑いのなくどんなことでも無駄がない。天皇に就くようお願いして決めなさい」と命令した。山田の皇后は、「私は、神のめぐみを身に受けたが、山と海は同じではありません。多くの重要な事柄の難しさを婦女子がどうして預かれましょう。今、皇子は、老人を敬い、幼い人を慈しみ、道理に通じた人には敬意が下される。昼日中は部下を待って食べないで、加えて、若いころから抜きんでていて、早くから人望を独り占めにして、性格もゆとりが有って穏やかで、務めて、悲しんでいる人をなだめている。お願いだから、諸臣達よ、早く皇子を即位させて天下に臨ませて欲しい」と畏まって断った。冬十二月の朔が庚辰の甲申の日に、天國排開廣庭の皇子が、天皇に即位した。この時に年齢は若干だった。皇后を尊んで皇太后といった。大伴の金村の大連と物部の尾輿の大連を大連とし、蘇我の稻目の宿禰の大臣を大臣としたのは共に以前と同じだ。】とあり、十二月庚辰は539年で標準陰暦と合致する。
ところが、同じ蘇我氏が記述させた『舊事本紀』では「元年歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申皇太子等召天皇位尊皇后曰皇太后追皇太后贈太皇太后物部尾輿連公為大連物部目連公為大臣」と『日本書紀』の欽明天皇元年が540年と違い、大伴大連が記述されない。
本来の元年は当然539年になるのだが、『日本書紀』は宮を天皇としているので遷都した540年が元年で、実際は、以前に記述した通り、やはり、襲名した継体天皇が相変わらず天皇である。
また、大伴大連が『舊事本紀』では記述されず、さらに、継体天皇・安閑天皇・宣化天皇にも「物部麁鹿火大連爲大連、蘇我稻目宿祢大臣爲大臣」を含めて記述されておらず、安閑天皇も宣化天皇も勾金橋宮と桧隈廬入野宮に遷都しただけでずっと継体帝だったことを意味し、継体天皇イコール欽明天皇を意味して、『舊事本紀』の欽明すなわち継体即位の説話で、武烈天皇が即位して尾輿を大連に、目を大臣にし、540年6月以前に武烈天皇を殺害して物部目が天皇に即位したのだろう。
物部麁鹿火も、継体天皇を発掘し、対磐井戦争の時に筑紫以西を取れと言われ、安閑天皇・宣化天皇に記述されているのだから、蘇我氏の王朝内の説話と考えられ、そうでないなら、『舊事本紀』から安閑天皇・宣化天皇での大連就任記事を削除する必要がない。
『舊事本紀』には「孫物部麁鹿大連公・・・此連公勾金橋宮御宇天皇御世爲大連」と系図部分には安閑天皇の大連とするが、天皇紀には継体天皇の時に継体天皇を推挙する大連とするだけで、系図部分は欽明天皇世代に配置され、最も矛盾を持つ人物で、実際は継体天皇イコール欽明天皇で、この中に物部目・蘇我稲目・蘇我馬子・葛子などの王の事績が割り振られているのである。
また、皇太后に襲名するのは安閑天皇の皇后の春日山田皇后ではなく仁賢天皇の春日皇后で、本来なら欽明天皇即位時の皇后と呼べるのは宣化天皇の皇后の橘仲媛しか有り得ない。
したがって、春日皇后に皇位継承を催促して、女だからと拒絶しているが、古代の天皇はこれまで記述した通り、前皇后を宮に迎え入れて皇太后に就任させることが皇位継承の必須で、迎え入れられない時は、皇后という天皇の宮という分王朝が併立することになる。
この皇后の説話は巨勢王朝の最高の皇位継承者の皇后を皇太后として迎え入れ、天皇というシステムが継承されたことを記述しているのである。
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