『日本書紀』慶長版は
「元年春正月庚戌朔甲子有司請立皇后詔曰立正妃武小廣國押盾天皇女石姫爲皇后是生二男一女長曰箭田珠勝大兄皇子仲曰譯語田渟中倉太珠敷尊少曰笠縫皇女二月百濟人己知部投化置倭國添上郡山村今山村巳知部之先也三月蝦夷隼人並率衆歸附秋七月丙子朔己丑遷都倭國磯城郡磯城嶋仍號爲磯城嶋金刺宮八月髙麗百濟新羅任那並遣使獻並脩貢職召集秦人漢人等諸蕃投化者安置國郡編貫戸籍秦人戸數愡七千五十三戸以大藏掾爲秦伴造九月乙亥朔己卯幸難波祝津宮大伴大連金村許勢臣稻持物部大連尾輿等從焉天皇問諸臣曰幾許軍卒伐得新羅物部大連尾輿等奏曰少許軍卒不可易征曩者男大迹天皇六年百濟遣使表請任那上哆唎下哆唎娑陀牟婁四縣大伴大連金村輙依表請許賜所求由是新羅怨曠積年不可輕爾而伐於是大伴金村居住吉宅稱疾不朝天皇遣青海夫勾子慰問慇懃大連怖謝曰臣所疾者非餘事也今諸臣等謂臣滅任那故恐怖不朝耳乃以鞍馬贈使厚相資敬青海夫人依實顯奏詔曰久竭忠誠莫恤衆口遂不爲罪優寵彌深是年也太歲庚申」
【元年の春正月の朔が庚戌の甲子の日に、役人が、皇后を立ててほしい願った。「正妃は武小廣國押盾の天皇の娘の石姫を立てて皇后としよう」と詔勅した。この皇后は二人の男子と一人の女子を生んだ。長男を箭田珠勝の大兄の皇子という。間の子を譯語田の渟中倉の太珠敷の尊という。一番下を笠縫の皇女という。二月に、百済の人の己知部が帰化した。倭国の添の上の郡の山村に置いた。今の山村の己知部の先祖だ。三月に、蝦夷と隼人が一緒に軍を率いて従った。秋七月の朔が丙子の己丑の日に、都を倭国の磯城の郡の磯城嶋に遷した。それで磯城嶋の金刺の宮と名付けた。八月に、高麗と百済と新羅と任那が、一緒に使者を派遣して税を献上し納めた。技能を持つ秦人と漢人等を呼び集めて、諸国の帰化した者を国や郡に大切に置き、戸籍に一纏めにした。秦人の戸数、七千五十三戸の人々がまとまらず、大藏の掾を、秦の伴の造とした。九月の朔が乙亥の己卯の日に、難波の祝の津の宮に行幸した。大伴の大連金村と許勢の臣稻持と物部の大連尾輿等を連れて行った。天皇が、緒臣に「いくらかの兵士で、新羅を伐つことが出来るか」と問いかけた。物部の大連の尾輿達が「少しぐらいの兵士では簡単には征伐できない。以前、男大迹の天皇の六年に、百済が、使者を派遣して、任那の上哆唎と下哆唎と娑陀と牟婁の、四縣を上表文で招いた。大伴の大連の金村は、もっぱら上表文で招いて、求てくる領土を許可して与えた。それで、新羅が悲しみうらんで何年にもなる。軽々しく討ってはいけない」と奏上した。そこで、大伴の大連の金村が、住吉の宅に居て、病気だと言って朝廷に参内しなかった。天皇は、青海の夫人の勾子を派遣して、丁寧に礼儀をもって見舞ってなぐさめた。大連は、「私が病気なのは、他事ではなく、今、諸臣達は、私が、任那を滅したという。だから、怖くて朝廷に参内しないだけだ」と畏まってわびた。それで、鞍を載せた馬を使者に贈らせて、手厚くそれに加えて尊んだ。青海の夫人は、実際のとおりにはっきりと奏上した。「永く忠誠を尽くした。大勢の人の言うことを憂いてはいけない」と詔勅した。そして罪に問わずに、余有るかわいがりはとてもこまやかだった。この年は太歳が庚申だった。】とあり、標準陰暦と合致する。
諸藩を外国としているが、梁武帝の大同6年540年頃に中原で大騒乱があったわけでもなく、中国人はこの時期はまだ呉人で、漢人も秦人も同じ中国人で見分けがつかないし、この当時日本は『隋書』に「至竹斯國又東至秦王國其人同于華夏以爲夷洲疑不能明也」のように秦王国と呼ばれていて、この国の人々が秦人ではないのだろうか。
そして、秦王国の王が秦人と他人事のように記述するのは奇妙で、この記録は朝鮮人でも、隼人でも、蝦夷でも漢人(俀國人)でも、秦人でもない、倭国人(蘇我氏)の王が記述したと考えられ、山背國紀伊郡の秦大津父が大藏省を任され、その役人が秦伴造になったということは、山背國を蘇我氏が領有したということを示す。
さらに、『三国志』での一国の戸数のほとんどが五千戸未満で、 秦人の七千五十三戸は大きい一国の戸数とわかり、安閑2年に得た「紀國經湍屯倉河邊屯倉丹波國蘇斯岐屯倉近江國葦浦屯倉」の屯倉群を得たのも蘇我氏の可能性が高い。
そして、この大伴金村記事は531年の仁賢天皇とその太子の殺害後の武烈天皇が即位した後のことで、仁賢天皇の対朝鮮政策の責任者の大伴金村を許した説話で、この後記述されず、巨勢王朝の完全な滅亡の時、金村が殉じた可能性が高い。
これを踏まえて、6世紀前半を俯瞰すると、仁賢天皇の悪政で国が混乱し、517年に物部目が秦王国を建国し、仁賢天皇は531年に磐井を征討したが、秦王国と物部麁鹿火の反乱で天皇も皇太子も殺害され、皇位継承者が巨勢男人しかいなかったが、成人していないので、その後継者を探し、大伴金村が武烈天皇を、物部麁鹿火が蘇我稲目を見つけて来て、武烈天皇が即位し、蘇我稲目は広国や山代を、葛子が那珂川以西と筑後・火を、蘇我馬子が那珂川以東の倭国(現代の大分・宮崎・熊本南部を含む)を領有したが、539年武烈天皇も秦王国によって滅ぼされ、540年に物部目が名実ともに日本の天皇となったということだ。
本来、継体年号より前から仁賢天皇も武烈天皇も元号を発布していたが、王朝交代によって残らなかっただけで、『二中歴』にも継体年号より前に元号が有ったと記述していて、残った元号が秦王国・倭国・日本国の元号が残り、700年から王朝が分裂した為に大化・大長と大宝・慶雲・和銅が重複して存在し、正史である『日本書紀』は大化以前の年号をあえて記述せず、必要な所では利用した。
欽明元年が『舊事本紀』では「元年歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申」と539年12月、「二年春正月庚戌朔」と540年1月、「七月丙子朔」と540年7月に記述されるが、『日本書紀』では欽明天皇元年が540年1月、そして明要元年は541年で「元年春正月庚戌朔甲子有司請立皇后詔曰立正妃武小廣國押盾天皇女石姫爲皇后」と皇后が決まった時が元年だということがわかり、書記の天皇の交代ではなく、皇后や太后の交代が重要で、白鳳年号が671年天智天皇が崩じても683年まで続いたことが証明している。
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