2020年5月22日金曜日

最終兵器の目 欽明天皇 4

  今回は百済聖明王の記述で長文の為、本文と解釈分を後に付け足し、検証を先に記述したい。
聖名王が日本の事を父だ兄だと述べているが、百済は『後漢書』に「馬韓割東界地與之」と新羅に土地を分割して建国させているが、元々三韓は「其諸國王先皆是馬韓種人焉・・・馬韓人・・・諸國邑各以一人主祭天神號為天君」と日本の天神天君を祀り、天君は天(あま)王で、同じ馬韓人の新羅は辰韓と呼び、「有似秦語故或名之為秦韓」と地域名が辰韓なのに秦語と書き換え、もし、秦朝語なら中国語で記述がおかしく、本来は辰語で、この秦は大秦国の秦だ。
三韓は天君・天神を戴く国々であったのだから、アカホヤ噴火の頃に韓地と九州は同じ型式の土器を使い、九州は「三身国」と呼ばれていて、「三身」の綱で大国は建国出来、『山海經』は大国を「大人国」と呼び、大人国は朝鮮半島にも「大人之市」を建設し、大国は畿内に天降って「神国」と呼ばれ三韓の地を影響下にある国として経営し、神国は天神ではなく大神を祀っているので、天神を祀る天君が父で、大神を祀る物部王朝は兄になる。
そして、衛満が馬韓・辰韓しか記述しないのでおそらくこの2国を征服して建国し、建武20年西暦44年に馬韓が衛満を破ったが、『後漢書』に「朝鮮王准為衛滿・・・馬韓破之自立為韓王准後滅絕馬韓人復自立為辰王」と馬韓王朝が滅び、辰王を戴くことで平定されたようだ。
『三国志』では「桓靈之末韓濊強盛・・・二郡遂滅韓」と韓が滅ぼされ、『晉書』まで名目上は中国の支配下と考えているようだが、『三国志』に「馬韓國邑各立一人主祭天神名之天君」と天君を戴き、『晉書』でも「辰韓常用馬韓人作主」と辰韓は馬韓を王と戴いて、弁辰は『三国志』に「弁辰亦十二國其十二國屬辰王辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王」と卑弥呼の時代でも辰国が存在し、『日本書紀』には朝鮮人が神功紀に「吾聞東有神國謂日本亦有聖王謂天皇必其國之神兵也」と時代背景もピッタリだ。
『三国史記』は卑弥呼を王朝2代前に誤入若しくは建国時期が間違いかだが(百済の建国は44年以降の可能性が大だが新羅は紀元前27年に王子が来日)、各国の史書が関連付いていて、弁辰が聖明王の言葉と符合するように、日本が支配するだけで、百済に自治をさせていたと6世紀に至るまで合致している。
なお、中国が百済国を認めたのは『晉書』372年の「咸安元年二年春正月辛丑百濟林邑王各遣使貢方物」からで、中国はそれまで三韓の地は中国に臣従しない日本の領土と考えていたようである。
しきりに、聖明王は「速古王貴首王之世」と述べているが、これは、『三国史記』の372年近肖古王二十七年の「春正月遣使入晉朝貢」の貢献で南朝に認知されて、倭と対等な地位を得たことで、南部朝鮮の主導権を得ることが出来たが、畿内日本に対しては臣従しているようだ。

『日本書紀』慶長版は
夏四月安羅次旱岐夷呑奚大不孫久取柔利加羅上首位古殿奚卒麻旱岐散半奚旱岐兒多羅下旱岐夷他斯二岐旱岐兒子他旱岐等與任那日本府吉備臣往赴百濟倶聽詔書百濟聖明王謂任那旱岐等言日本天皇所詔者全以復建任那今用何策起建任那盍各盡忠奉展聖懷任那旱岐等對曰前再三𢌞與新羅議而無荅報所圖之旨更告新羅尚無報今宜倶遣使往奏天皇夫建任那者爰在大王之意祗承教旨誰敢間言然任那境接新羅恐致卓淳等禍聖明王曰昔我先祖速古王貴首王之世安羅加羅卓淳旱岐等初遣使相通厚結親好以爲子弟冀可恒隆而今被誑新羅使天皇忿怒而任那憤恨寡人之過也我深懲悔而遣下郡中佐平麻鹵城方甲肖昧奴等赴加羅會于任那日本府相盟以後繋念相續圖建任那旦夕無忘今天皇詔稱速建任那由是欲共爾曹謨計樹立任那國宜善圖之又於任那境徵召新羅問聽與不乃倶遣使奏聞天皇恭承示教儻如使人未還之際新羅候隙侵逼任那我當往救不足爲憂然善守備謹警無忘別汝所導恐致卓淳等禍非新羅自強故所能爲也其㖨巳荅居加羅與新羅境際而被連年攻敗任那無能救援由是見亡其南加羅蕞爾狹小不能卒備不知所託由是見亡其卓淳上下携貳主欲自附內應新羅由是見亡因斯而觀三國之敗良有以也昔新羅請援於髙麗而攻擊任那與百濟尚不剋之新羅安獨滅任那乎今寡人與汝戮力幷心翳頼天皇任那必起因贈物各有差忻忻而還秋七月百濟聞安羅日本府與新羅通計遣前部奈率鼻利莫古奈率宣文中部奈率木?()昩淳紀臣奈卒彌麻沙等使于安羅召到新羅任那執事謨建任那別以安羅日本府河內直通計新羅深責駟之乃謂任那曰昔我先祖速古王貴首王與故旱岐等始約和親式爲兄弟於是我以汝爲子弟汝以我爲父兄共事天皇倶距強敵安國全家至于今日言念先祖與舊旱岐和親之詞有如皎日自茲以降勤修隣好遂敦與國恩踰骨肉善始有終寡人之所恒願未審何縁輕用浮辭數歲之間慨然失志古人云追悔無及此之謂也上達雲際下及泉中誓神乎今改咎乎昔一無隱匿發露所爲請誠通靈深自克責亦所宜取蓋聞爲人後者貴能負荷先軌克昌堂構以成勳業也故今追崇先世和親之好敬順天皇詔勅之詞拔取新羅所折之國南加羅㖨巳荅等還属本貫遷實任那求作文()兄恒朝日本此寡人之所食不甘味寢不安席悔往戒今之所勞想也夫新羅甘言希誑天下之所知也汝等妄信既墮人權方今任那境接新羅宜常設備豈能施柝爰恐陷罹誣欺網穽喪國亡家爲人繋虜寡人念茲勞想而不能自安矣竊聞任那與新羅運策席際現蜂蛇怪亦衆所知且夫妖祥所以戒行灾異所以悟人當是明天告戒先靈之徵表者也禍至追悔滅後思興孰云及矣今汝遵余聽天皇勅可立任那何患不成若欲長存本土永御舊民其謨在茲可不愼也聖明王更謂任那日本府曰天皇詔稱任那若滅汝則無資任那若興汝則有援今冝興建任那使如舊日以爲汝助撫養黎民謹承詔勅悚懼填胸誓效丹誠冀隆任那永事天皇猶如往日先慮未然然後康樂今日本府復能依詔救助任那是爲天皇所必褒讚汝身所當賞禄又日本卿等久住任那之國近接新羅之境新羅情狀亦是所知毒害任那謨防日本其來尚矣匪唯今年而不敢動者近羞百濟遠恐天皇誘事朝庭偽和任那如斯感激任那日本府者以未禽任那之間偽示伏從之狀願今?()其間隙諾其不備一舉兵而取之天皇詔勅勸立南加羅㖨己荅非但數十年而新羅一不聽命亦卿所知旦夫信敬天皇爲立任那豈若是乎恐卿等輙信甘言輕被謾語滅任那國奉辱天皇卿其戒之勿爲他欺秋七月百濟遣紀臣奈卒彌麻沙中部奈卒巳連來奏下韓任那之政幷上表之
【夏四月に、安羅の次旱岐の夷呑奚と大不孫と久取柔利、加羅の上首位の古殿奚と、卒麻の旱岐と、散半奚の旱岐の子、多羅の下の旱岐の夷他と、斯二岐の旱岐の子の子他の旱岐達が、
任那の日本府の吉備の臣に連れられて百済に行って、吉備の臣が宣下する詔勅を一緒に聞いた。百済の聖明王は、任那の旱岐達に「日本の天皇の詔勅のすべては、任那を再建するよう言っているが、今となってどういう方法で任那を再建すればよいのか。どうか夫々忠義を尽くして、天皇の気持ちを満足させてほしい」と言った。任那の旱岐達が「以前に再三、新羅と考えた。しかし答えがなかった。話し合う内容をもう一度新羅に告げても、同じように答えが無かった。今は、一緒に使者を派遣して、天皇に奏上するべきだ。すなわち任那の再建が、百済大王の考えだから、敬って教えられたことを聞いた。それなのに誰が敢えてその間に立って言えましょう。しかし、任那の境界は新羅と接しています。おそらく、卓淳達が禍をまねき寄せるでしょう」と答えた。聖明王は、「昔、私の先祖の速古王(近肖古王)や貴首王(仇首王)の時代に、安羅と加羅と卓淳の旱岐達が、はじめて使者を派遣して互いに行き来して、手厚く友好関係を約束した。それで子弟の世代となっても、いつも栄えることが出来るように願った。それで今、新羅に欺かれて、天皇をひどく怒らせて、任那が腹を立てて怨むのは、私自身の失敗だ。私は、とてもこりて後悔し、下部の中佐平の麻鹵と城方の甲背昧奴達を派遣して、加羅に行って、任那の日本府に集まって同盟した。それより後、何代も想いをかけて、任那の再建を考えて、朝から晩まで忘れたことが無かった。今、天皇の『速く任那を建てよ』との詔勅を聞いた。これで、お前たちと共に考えて、任那の国を樹立しようと思う。よく考えなさい。また任那の国境に、新羅を呼び出して、考えに従うかどうか聞こう。それで一緒に使者を派遣して、天皇に奏上して、つつしんで考えを示して答を聞こう。もし、使者が帰る前に新羅が隙を見て、任那を侵略しようと迫ってきたら、私は、きっと出かけて行って救う。心配しなくてもよい。しかし、いいな、警戒することは忘れるな。特にお前が卓淳達に禍が及ぶことを恐れるのは、新羅が、強いからできたのではない。あの㖨己呑は、加羅と新羅との境界に居て、何年も攻められて敗れた。任那は救援できなかった。このため亡ぶこととなった。あの南加羅は、とても小さくて狭く、急に備えることが出来ずに、頼りにする国を知らないで滅ぶことになった。あの卓淳は、上下が二つになり、主が自ら新羅に付こうと内通して、そのため滅びることとなった。これらの原因を見ても、三国が敗れたのには、こんな理由が有った。昔、新羅は、高麗に助けを求めて、任那と百済とを攻撃したけれどそれでも勝てなかった。新羅は、どうやって一国で任那を滅ぼせようか。今、私は、力をあわせ、心を一つに、天皇の頼みを支えれば、任那はきっと起こせる」と言った。それで、贈り物を渡したが夫々差をつけ、みな、大喜びで帰った。秋七月に、百済は、安羅の日本府が新羅と共謀したと聞いて、前部の奈率の鼻利莫古と奈率の宣文と中部の奈率の木刕昩淳と紀臣の奈率の彌麻沙達を安羅に派遣して、新羅にいた任那の庶務を執り行う者を呼んで、任那を建てようとした。特に安羅の日本府の河内の直が、計画を新羅に教えていたので、強く責め罵った。それで任那に「昔、私の先祖の速古王と貴首王とは、以前の旱岐達と、はじめて和親を約束して、兄弟となった。そこで、私はお前を子や弟と同じように思い、お前は私を父や兄と同じように思う。共に天皇に仕えて、一緒に強敵を拒んできた。国を安定させ家をまとめて、今に至っている。心の中で、先祖と昔の旱岐とが仲よくする言葉が有れば輝かしい日々のようだと思っていた。これ以降は、せいを出して良い隣人となって、夫々の国を貴ぶようになろう。情けは肉親を超越する。はじめ良いから、終りまでと、私はいつも願っている。そもそも、どういう理由で上辺だけの言葉を軽々しく真に受けて、何年もの間、嘆き憂えて信念を失ってしまったのだ。先人が、『後悔先に立たず』と言うのは、これを言うのだ。上は雲の際に達っし、下は泉の中に及ぶまで、神に今、誓って、昔の過ちを改めろ。ひとえに、隠し事をせず、言ったことを正直に言って、誠意をもって、よく、自分を克服して、実行してほしい。たしか聞いたのだが、人に従う者は、うまく、前を歩く足跡どおりに安全に荷物を背負って、力を尽くしてお家を栄えさせ、君主に尽くして成功させることを貴ぶ。それで、今、先祖の時の和親の約束を崇め従って、天皇の詔勅の言葉を敬って従い、新羅が勢力を押さえた国の南加羅と㖨己呑達を奪い取って、元の戸籍に返して所属させ、元の任那に遷して、父兄を戸籍に載せ、いつも日本を朝廷としよう。今は任那が無いので、私は食べても美味くもなく、寝ていても安らげない。昔を悔い今を戒めて、苦労している所だ。あの新羅は甘言を弄して欺こうとしている事はみんな知っている。お前たちは、むやみやたらに信じて、もう、人をだますような計画に陥っている。ただ今、任那の国境に、新羅が接している。いつも備えて、決して間違いなく拍子木を置いて警戒を緩めてはいけない。そうしないと、おそらく、有りもしないことに騙されて、網を張った穴の中に閉じ込められて、国を失い家が滅び、繋がれた奴隷になってしまう。私は、このように思って、安心できないでいる。『任那と新羅とが、策をめぐらしている席のすぐ側では、おかしなことに蜂や蛇が現れた。』とこっそり聞いた。またこれもみんなが知っている話だ。またそんな怪しい兆しは行いを戒めるためだ。災害は人に真意を知らせるためのものだ。本当にこれが、明日のために戒めているのであり、守護霊の徴だ。誰が禍に後悔し滅んだあとで再興しようと思っても、こうなってしまうことを誰が言えたのか。今、お前が私に従って、天皇の詔勅を聞いて、任那を立てるべきだ。どうして出来ないと悩むのだ。もし長く本土をながらえようと、昔からの人民をずっと治めようとするなら、その方策はこれしかない。つつしんで受けるべきだ」と言った。聖明王は、また任那の日本府に、「天皇が、『任那がもし滅んだなら、すなわち、お前は無一文だ。任那がもし再興出来たら、すなわち、お前に手をさしのべて助けてやる。今、任那を再興して、昔の様になったら、お前が人民をかわいがってやしなう私の補佐にしてやる』と詔勅した。謹んで詔勅を聞いて、恐れおののく気持ちが胸一杯になった。真心を持って努力して、できたら、任那を栄えさせたいと誓った。永く天皇のために生きてきたのは、相変わらず昔のとおりだ。まず、なにか起こる前に考えれば、その後は無事に楽しめる。今、日本府もまた、詔勅の様にうまく、任那を救って助ければ、それは、天皇に、きっと褒め讃えてもらえて、お前に恩賞が授けられるだろう。また、日本の宰相達は、永く任那の国、新羅に接するように国境の近くにに住みついたので、新羅の実情もまたよくわかる場所でもある。日本を防衛しようとする任那を傷つけ害って、ただ今年だけではなく、このような事になって久しい。それなのに敢えて動かないのは、身近では百済の恥となり、遠くは天皇に恐れ多い。朝廷に仕えると思わせて偽って任那と仲良くする。このように任那の日本府を感激させたのは、まだ任那を捕えるまで、従うように見せ掛けている為だ。できたら今、その隙を伺って、その十分に備えていないのに乗じて、軍隊を一挙に派兵してこれを取りましょう。天皇は、詔勅で、南加羅と㖨己呑を立てなさいと言ったのは、ほんの数十年のことでは無い。それなのに新羅は、一向に命令を聞かないのは、宰相のよく知っていることだ。しかもその詔勅は任那を立てる為、天皇を信じて、どうして敬おうとしないのか。おそらくは宰相達が簡単に甘言を真に受けて、軽々しく天皇を辱めようとする讒言を聞いて、任那の国を滅ぼしてしまう。宰相よそのようなことを警戒して、人に欺かれてはいけない」と言った。秋七月に、百済は、紀の臣の奈率の彌麻沙と中部の奈率の己連を派遣して来て、下韓と任那の政策と同時に上表文を奏上した。】とある。

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