2020年5月8日金曜日

最終兵器の目 安閑天皇4

 『日本書紀』慶長版は
二年春正月戊申朔壬子詔曰間者連年登穀接境無虞元元蒼生樂於稼穡業業黔首兔於飢饉仁風暢乎宇宙美聲塞乎乾坤內外清通國家殷富朕甚欣焉可大酺五日爲天下之歡夏四月丁丑朔置勾舍人部勾靫部五月丙午朔甲寅置筑紫穗波屯倉鎌屯倉豊國滕碕屯倉桑原屯倉肝等屯倉大拔屯倉我鹿屯倉火國春日部屯倉播磨國越部屯倉牛鹿屯倉備後國後城屯倉多祢屯倉來履屯倉葉稚屯倉河音屯倉婀娜國膽殖屯倉膽年部屯倉阿波國春日部屯倉紀國經湍屯倉河邊屯倉丹波國蘇斯岐屯倉近江國葦浦屯倉尾張國間敷屯倉入鹿屯倉上毛野國緑野屯倉駿河國稚贄屯倉秋八月乙亥朔詔置國國犬養部九月甲辰朔丙午詔櫻井田部連縣犬養連難波吉士等主掌屯倉之税丙辰別勅大連云宜放牛於難破大隅嶋與媛嶋松原冀垂名於後冬十二月癸酉朔己丑天皇崩于勾金橋宮時年七十是月葬天皇于河內舊市髙屋丘陵以皇后春日山田皇女及天皇妹神前皇女合葬于是陵
【二年の春正月の朔が戊申の壬子の日に、「このごろは何年も続いて、耕地の境が解らないほど穀物が実り、何の憂いも無い。元々人民は種まきと収穫を楽しみに、いそいそと働く人民は、飢えや苦しみを免れることが出来る。仁徳による教化は宇宙(漢淮南子·天文訓「道始于虛霩虛霩生宇宙宇宙生氣氣有涯垠」時間と空間全て)に延び拡がり、耳に快い声は日が当たる天地を覆うほど響き渡る。内も外も筋が通っていてわかりやすく国家は栄えて豊かなになった。私は大変喜んでいる。私が酒食を用意するから大宴会を五日間開くのでみな喜びとしてほしい」と詔勅した。夏四月の丁丑が朔の日に、勾の舍人部と勾の靫部を置いた。五月の朔が丙午の甲寅の日に、筑紫の穗波の屯倉・鎌の屯倉、豊の国の滕碕の屯倉・桑原の屯倉・肝等の屯倉、大拔の屯倉・我鹿の屯倉、火の国の春日部の屯倉、播磨の国の越部の屯倉、牛鹿の屯倉、備の後の国の後城の屯倉・多禰の屯倉・來履の屯倉、葉稚の屯倉、河音の屯倉、婀娜の国の膽殖の屯倉、膽年部の屯倉、阿波の国の春日部の屯倉、紀の国の經湍の屯倉、河邊の屯倉、丹波の国の蘇斯岐の屯倉、近江の国の葦浦の屯倉、尾張の国の間敷の屯倉、入鹿の屯倉、上毛野の国の緑野の屯倉、駿河の国の稚贄の屯倉を置いた。秋八月の乙亥が朔の日に、国々の犬養部を置くよう詔勅した。九月の朔が甲辰の丙午の日に、櫻井の田部の連・縣犬養の連・難波の吉士達に、屯倉の税をつかさどるところのかしらに任命する詔勅を出した。丙辰の日に、大連には別に「牛を難破の大隅の嶋と媛嶋の松原とに放牧して、出来たら名を後世に残せ」と詔勅した。冬十二月の朔が癸酉の己丑の日に、天皇は、勾の金橋の宮で崩じた。この時、年齢は七十歳だった。この月に、天皇を河内の舊市の高屋の丘の陵に葬った。皇后の春日の山田の皇女と天皇の妹の神前の皇女を、この陵に合葬した。】とあり、四月丁丑、五月丙午、八月乙亥、十二月癸酉は標準陰暦と合致し、九月甲辰は8月30日で9月が小の月なら合致する。
ところが、正月戊申は戊寅で468年雄略天皇十二年と597年推古天皇五年でどちらも、今一つ当てはまるとは言えず、561年欽明天皇二二年は1月2日が戊申で前年の12月は小の月で、大の月なら合致する。
朕承帝業於今二十四年天下清泰內外無虞土脉膏腴穀稼有實竊恐元元由斯生俗藉此成驕」と継体24年に高らかに宣言し、これは欽明元年のことと述べたが、欽明21年末に前天皇が崩じて長男が後継天皇として即位という間隔に良くあてはまり、元年の宣言を基にしたと考えられる。
しかし、もともと、前の項で535年の1月を534年閏12月と記述していて、この1月が2月であれば、戊申でピタリと符合するが、安閑元年は531年2月からで、正月が無く、安閑2年は3年でなければ正しいとは言えず、勿論年干支も違い、531年2月即位した天皇は巨勢男人が大臣になった時の可能性が高い。
そして、これらの屯倉を置けた理由は、巨勢氏と大伴氏、磐井の敗北とそれに協力した尾張氏、上毛野君(前項で述べた)の領地を物部氏と蘇我氏が手に入れたことを示し、筑紫・火・豊は磐井の領地、播磨・阿波・紀は景行天皇すなわち恐らく建内宿禰の一族の領地で、備後・婀娜はは平群氏雄略天皇が奪った領地で丹波は『舊事本紀』に「六世孫建田背命・・・丹波國造」と尾張氏、近江も『舊事本紀』に「日本武尊娶兩道入姬皇・・・稚武王 近江速部君祖」とあり、ヤマトタケルは熱田神宮から東征し尾張氏の領地と思われる。
また、この天皇は崩じたその月に埋葬され、古墳は既にできていた、すなわち、磐井と同じように横穴石棺の古墳の記述のようで、『釈紀十三』に筑後國風土記の逸文から、「筑紫君石井豪強暴虐不偃皇風生平之時預造此墓俄而官軍動發欲襲之間知勢不勝獨自遁于豐前國上膳縣終于南山峻嶺之曲於是官軍追尋失蹤士怒未泄擊折石人之手打墮石馬之頭」と磐井と戦った時に既に石人が設置された別区があってそれを打ち壊したと述べ、既に古墳が完成していたと記述されている。
畿内ではまだ横穴石室が7世紀まで無く、九州の王の説話、蘇我氏か葛子か磐井の埋葬を記述した可能性があり、神前皇女の母は廣媛で、廣國押武金日を兄妹としているが、三代目の廣國押武金日が兄妹、2代目廣國押武金日が531年の戦乱で得た廣国の姫の廣媛との間に生まれたのが神前皇女、倭王なのだから横穴石棺で、娘と皇后を合葬したと思われ、この廣國押武金日は蘇我氏の倭国の宮が出来て70年という意味だろう。
石舞台古墳が馬子の墓と言われているが、横穴式石室なのだから土を取り除く必要が無く、横穴石室を作って、土を盛る前に古墳を作ることを止めたのであって、入鹿や蝦夷の墓の可能性が高い。

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