2020年5月27日水曜日

最終兵器の目 欽明天皇 6

  今回も原文が長文なので解説を先に記述する。
百済の史書の初見は『晉書』の372年咸安二年「二年春正月辛丑百濟林邑王各遣使貢方物 」、『三国史記』の近肖古王二十七年に「春正月遣使入晉朝貢」と対応して記述され、中国に百済と認知されたが、『晉書』は『後漢書』・『三国志』と同様「韓種有三一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓」と韓地は認めているが、中国に臣従する国とは認めていないが、馬韓が「韓割東界以居之」と辰韓を分け与えたと馬韓の主導権を認めている。
そして、『宋書』からは百済が、『梁書』から新羅が記述され、『梁書』の新羅の項に521年「普通二年王募名秦始使使隨百濟奉獻方物」と百済に従って梁に奉献したと記述し、『三国史記』にも法興王八年に「遣使於梁貢方物」と記述され、521年に倭国と百済が対新羅に対しては逆転してしまったようだ。
的臣等往來新羅方得耕種朕所曽聞」と的臣が新羅を抑えたのは聖明王の「曽」と「文周王・三斤王」の475~480年頃の話で、この説話は倭王武や磐井の頃の491年仁賢天皇四年の「的臣蚊嶋穗瓮君有罪皆下獄死」や、527年継体天皇二一年の「欲往任那爲復興建新羅所破南加羅喙己呑而合任那於是筑紫國造磐井陰謨叛逆・・・於是磐井掩據火豐二國勿使修職外逢海路誘致高麗百濟新羅任那等國年貢職船内遮遣任那毛野臣軍」の状況と合致している。
神功皇后摂政四七年から雄略天皇まで『百濟記』、継体天皇から欽明天皇十七年の556年まで『百濟本記』を引用して解説しているということは、解説文以外は百済の資料ではなく、他の資料で、もちろん、蘇我氏や物部氏の資料なら姓・名を記述でき、使わない文字をあえて書く必要が無い。
すなわち、この元資料は倭国や毛野臣の資料だと言うことが解り、蘇我氏の倭国ではなく後の俀国の韓地の説話を蘇我氏が日本の朝廷から見た視点で記述したもので、後の俀国が新羅と結託して日本と百済に対抗していることが解り、そのため、朔の日干支が全く記述されていない。
そのため、『日本書紀』本文に「安羅人者以日本府爲天」と『三国志』の「馬韓國邑各立一人主祭天神名之天君」と天国が韓地の支配者で、本来天皇が天なのに現在日本府を牛耳って天皇に逆らっている国が天国王と安羅人はみなしているとしている。
もし、これらが百済の史書からのものなら、それに加えて『百濟本記』云うなどと書かないか、最初に『百濟本記』にあると書いて、全文使えばよく、現にそのように記述した部分もあり、『梁書』に「新羅・・・無文字刻木爲信」と新羅の資料では有り得ない。
なお、神功皇后摂政四七年からの『百濟記』は近肖古王三十年「冬十一月王薨古記云百濟開國已來未有以文字記事至是得博士高興始有書記然高興未嘗顯於他書」と375年から文字として高興が記述したとあり、応神天皇十六年の「習諸典籍於王仁」は390年即位の応神天皇が405年に典籍を学び、『百濟記』は375年以降記述され初めて随時日本にも提出されていたことが解る。
『日本書紀』慶長版は
五年春正月百濟國遣使召任那執事與日本府執事倶荅言祭神時到祭了而往是月百濟復遣使召任那執事與日本府執事日本府任那倶不遣執事而遣微者由是百濟不得倶謀建任那國二月百濟遣施德馬武施德髙分屋施德斯那奴次酒等使于任那謂日本府與任那旱岐等曰我遣紀臣奈率彌麻沙奈卒巳連物部連奈率用歌多朝謁天皇弥麻沙等還自日本以詔書宣曰汝等冝共在彼日本府早建良圖副朕所望爾其戒之勿被他誑又津守連從日本來宣詔勅而問任那之政故將欲共日本府任那執事議定任那之政奉奏天皇遺召三𢌞尚不來到由是不得共論?(圖)計任那之政奉奏天皇矣今欲請留津守連別以疾使具申情狀遣奏天皇當以三月十日發遣使於日本此使便到天皇必湏問汝汝日本府卿任那旱岐等各宜發使共我使人往聽天皇所宣之詔別謂河內直自昔迄今唯聞汝惡汝先祖等倶懷姧偽誘說爲歌可君專信其言不憂國難乖背吾心縱肆暴虐由是見逐軄汝之由汝等來住任那恒行不善任那日損軄汝之由汝是雖微譬猶小火焼焚山野連延村邑由汝行惡當敗任那遂使海西諸國官家不得長奉天皇之闕今遣奏天皇乞移汝等還其本處汝亦往聞又謂日本府卿任那旱岐等曰夫建任那之國不假天皇之威誰能建也故我思欲就天皇請將士而助任那之國將士之粮我當湏運將士之數未限若干運粮之處亦難自決願居一處倶論可不擇從其善將奏天皇故頻遣召汝猶不來不得議也日本府荅曰任那執事不赴召者是由吾不遣不得往之吾遣奏天皇還使宣曰朕當以?()歌臣遣於新羅以津守連遺於百濟汝待聞勅際莫自勞往新羅百濟也宣勅如是會聞?()歌臣使於新羅乃追遣問天皇所宣詔曰日本臣與任那執事應就新羅聽天皇勅而不宣就百濟聽命也後津守連遂來過此謂之曰今余被遣於百濟者將出在下韓之百濟郡令城主唯聞此說不聞任那與日本府會於百濟聽天皇勅故不往焉非任那意於是任那旱岐等曰由使來召便欲往參日本府卿不肯發遣故不往焉大王爲建任那觸情曉示覩茲忻喜難可具申三月百濟遺奈率阿亡得文許勢奈率歌麻物部奈卒歌非等上表曰奈卒彌麻沙奈卒已連等至臣蕃奉詔書曰爾等宜共在彼日本府同謀善計早建任那爾其戒之勿被他誑
又津守連等至臣蕃奉勅書問建任那恭承來勅不敢停時爲欲共謀乃遣使召日本府與任那倶對言新年既至願過而往久而不就復遣使召倶對言奈時既至願過而往久而不就復遣使召而由遣微者不得同計夫任那之不赴召者非其意焉是阿賢移那斯佐魯麻都姧佞之所作也夫任那者以安羅爲兄唯從其意安羅人者以日本府爲天唯從其意今的臣吉備臣河內直等咸從移那斯麻都指撝而已移那斯麻都雖是小家微者專擅日本府之政又制任那障而勿遣由是不得同計奏荅天皇故留己麻奴跪別遣使迅如飛烏奉奏天皇假使二人在於安羅多行姧佞任那難建海西諸國必不獲事伏請移此二人還其本處勅喩日本府與任那而圖建任那故臣遣奈率彌麻沙奈率巳連等副已麻奴跪上表以聞於是詔曰的臣等往來新羅非朕心也曩者?()支弥與阿鹵旱岐在時爲新羅所逼而不得耕種百濟路迥不能救急由的臣等往來新羅方得耕種朕所曽聞若已建任那移那斯麻都自然却退豈足云乎伏承此詔喜懼兼懷而新羅誑朝知匪天勅新羅春取㖨淳仍擯出我久禮山戎而遂有之近安羅處安羅耕種近久禮山處斯羅耕種各自耕之不相侵奪而移那斯麻都過耕他界六月逃去於?()支弥後來許勢臣時新羅無復侵逼他境安羅不言爲新羅逼不得耕種臣嘗聞新羅毎春秋多聚兵甲欲襲安羅與荷山或聞當襲加羅頃得書信便遣將士擁守任那無懈息也頻發鋭兵應時往救是以任那隨序耕種新羅不敢侵逼而奏百濟路迥不能救急由的臣等往來新羅方得耕種是上欺天朝轉成姧佞也曉然若是尚欺天朝自餘虛妄必多有之的臣等猶住安羅任那之國恐難建立宜早退却臣深懼之佐魯麻都雖是韓腹位居大連廁日本執事之間入榮班貴盛之例而今反著新羅奈麻禮冠即身心歸附於他易照熟觀所作都無怖畏故前奏惡行具錄聞訖今猶著他服日赴新羅城公私往還都無所憚夫㖨國之滅匪由他也㖨國之函跛旱岐貳心加羅國而內應新羅加羅自外合戰由是滅焉若使函跛旱岐不爲內應㖨國雖少未必亡也至於卓淳亦復然之假使卓淳國主不爲內應新羅招冦豈至滅乎歷觀諸國敗亡之禍皆由內應貳心人者今麻都等腹心新羅遂着其服往還且夕陰搆姧心乃恐任那由茲永滅任那若滅臣國孤危思欲朝之豈復得耶伏願天皇玄鑒遠察速移本處以安任那冬十月百濟使人奈卒得文奈卒歌麻等罷歸十一月百濟遣使召日本府臣任那執事曰遺朝天皇奈率得文許勢奈率奇麻物部奈率奇非等還自日本今日本府臣及任那國執事宜來聽勅同議任那日本吉備臣新(安)羅下旱岐大不孫久取柔利加羅上首位古殿奚卒麻君斯二岐君散半奚君兒多羅二首位訖乾智子他岐旱久嵯旱岐仍赴百濟於是百濟王聖明略以詔書示曰吾遣奈卒彌麻佐奈卒巳連奈卒用竒多等朝於日本詔曰早建任那又津守連奉勅問成任那故遣召之當復何如能建任那請各陳謀吉備臣任那旱岐等曰夫建任那國唯在大王欲冀遵王倶奏聽勅聖明王謂之曰任那之國與吾百濟自古以來約爲子弟今日本府印岐祢既討新羅更將代(伐)我又樂聽新羅虛誕謾語也夫遣印支祢於任那者本非侵害其國往古來今新羅無導食言違信而滅卓淳股肱之國欲快返悔故遣召到倶承恩詔欲冀興繼任那之國猶如舊日永爲兄弟竊聞新羅安羅兩國之境有大江水要害之地也吾欲據此修繕六城謹請天皇三千兵士毎城充以五百幷我兵士勿使作田而逼惱者久禮山之五城庶自投兵降首卓淳之國亦復當興所請兵士吾給衣粮欲奏天皇其策一也猶於南韓置郡令城主者豈欲違背天皇遮斷貢調之路唯庶剋濟多難殲撲強敵凡厥凶黨誰不謀附北敵強大我國微弱若不置南韓郡領城主修理防護不可以禦此強敵亦不可以制新羅故猶置之攻逼新羅撫存任那若不爾者恐見滅亡不得朝?()欲奏天皇其策二也又吉備臣河內直移那斯麻都猶在任那國者天皇雖詔建成任那不可得也請移此四人各遣還其本邑奏於天皇其策三也宜與日本臣任那旱岐等倶奉遣使同奏天皇乞聽恩詔於是吉備臣旱岐等曰大王所述三策亦協愚情而巳今願歸以敬諮日本大臣安羅
王加羅王倶遣使同奏天皇此誠千載一會之期可不深思而熟計歟
【五年の春正月に、百済国が、使者を派遣して、任那の庶務官と日本府の庶務官を呼んだ。二人とも、「神を祭る時期になった。祭りが終わったら行く」と答えた。この月に、百済は、また使者を派遣して、任那の庶務官と日本府の庶務官を呼んだ。日本府と任那はどちらも庶務官を派遣しないで、身分の低い者を派遣した。これで、百済は、一緒に任那国を建てる相談が出来なかった。二月に、百済が、施徳の馬武と施徳の高分屋と施徳の斯那奴次酒達を派遣して、任那に使者として、日本府と任那の旱岐達とが「私は、紀の臣の奈率の弥麻沙と奈率の己の連と物部の連の奈率の用奇多を派遣して、天皇に拝謁した。弥麻沙達は、日本から還って、詔書で『お前たち、そちらにある日本府と一緒に、早くいい案を考えて、私が望むようにしなさい。自ら戒めて騙されてはいけない』と宣下した。また津守の連が、日本からやって来て、詔勅を宣下して、任那の政策を問いただした。それで、日本府と任那の庶務官と共に、任那の政策を相談して決め、天皇に奏上しようとして、召喚の使者を三回も派遣したが、それでも来なかった。これで、一緒に任那の政策を討議して考え、天皇に奏上することが出来なかった。今、津守の連にとどまってもらい、早駆けの特使を使って詳しい状況を天皇に奏上するよう派遣したい。それで、三月十日に、使者を日本に出発させた。この使者が、着いたら、天皇は、きっとお前に問いかけるだろう。お前は日本府卿と任那の旱岐達が、それぞれ使者を送って、私の使者と共に、天皇の元に行って宣下する詔勅を聞きなさい」と言った。特に河内の直が「昔から今までに、お前の悪事ばかり聞く。お前の先祖達は、みなよこしまな心で言いくるめた。それで、爲哥可の君はお前たちの言葉を真に受けて、国難を気にもかけなかった。私の思いに背き、勝手気ままにむごい仕打ちをして苦しめる。これで職が解かれたのはお前が原因だ。お前たちは、任那にやって来て留まり、いつも悪さをした。任那が、毎日仕事が邪魔されるのはお前が原因だ。お前はほんの少しと言っても、たとえばほんの小さな火で山野が焼けて、村邑に延焼するのと同じだ。お前の行いが悪いから、疑いもなく任那が失敗した。海の西の諸国の官家を、長く天皇の朝廷に仕えることがとうとう出来なくなってしまった。今、天皇に奏上しに派遣して、お前たちを本国に移し返そうとお願いした。お前たちも行って聞きなさい」と言った。また日本府卿と任那の旱岐達に「任那の国を建てることは、天皇の力を借りなければ、誰も建てられない。それで、私は、天皇のもとに行って、軍隊の派兵をお願いして、任那の国を助けようとおもう。兵糧は、私が運ぶ。軍人の数は、少しとは限らない。兵糧を運ぶ場所は、決めかねる。出来たら一ヶ所に居て、一緒に可否を相談して、最善策に従って、天皇に奏上しようとした。それで、何度も呼び出す使者を派遣したが、お前たちが来なければ相談できない」と言った。日本府が答えて「任那の庶務官を呼んでも来ないのは、私が派遣しなかったから訪問できなかった。私は、天皇に奏上するため派遣して、帰った使者が『私は印奇の臣を、新羅に派遣し、津守の連を、百済に派遣するべきだ。お前は、詔勅を聞くまで待ちなさい。新羅と百済に、わざわざ行くな』と宣下した。詔勅はこのように宣下された。たまたま、印奇の臣が新羅に行くことを聞いて、それで追いかけて天皇が宣下したことを問いただした。『日本の臣と任那の庶務官とが、新羅に行って、天皇の勅を聞きなさい』と詔勅した。百済に行って命令を聞けと宣下されなかった。後で津守の連が、やっとここを通り過ぎようとして、『私が、百済に派遣されて、今、下韓に居るのは、百済の郡令と城主を出仕させるというからだ』といった。ただこの言葉だけを聞いた。任那と日本府とが、百済に集まって、天皇の詔勅を聞くようには聞いていない。だから、来なかったのは、任那の本意ではない」と言った。そこで、任那の旱岐等は「使者が来て呼び出すので、都合が良いので参上しようとしたが、日本府卿が派遣させなかったので来なかった。大王は、任那を建てる為に、情に訴えはっきりと指示し、この様子を見てとてもよろこんではいますが、詳しく申し述べれません」と言った。三月に、百済が奈率の阿亡得文と許勢の奈率の奇麻と物部の奈率の奇非達を派遣して、上表文で、「奈率の彌麻沙と奈率の己の連達は、私の蕃に来て、詔書で、『お前たち、そこに居る日本府と一緒に、同じ思いで最善の計画を出して、早く任那を建てろ。お前はそれを自分で決めたことと思って、人の言葉に惑わされてはいけない』と奏上した。また津守の連達は、私が蕃に来て勅書を奉上して、任那を建てることを問いかけた。つつしんで勅をきいて、時間をかけようとしないで、詔勅の実現の為に考えようと使者を派遣して日本府と任那とを招集した。どちらも『もう新年になった。少したってから行こうと思う』と答えた。それでだいぶ経ったが来なかった。また使者を派遣して招集した。どちらも、『祭の時期になった。少したってから行こうと思う』と答えた。それでだいぶ経ったが来なかった。また使者を派遣して招集した。それなのに、身分の低い物を派遣した為、一緒に相談できなかった。この任那が、呼んでも来ないのは、本意ではない。これは阿賢移那斯と佐魯麻都が、こびへつらって騙したからだ。この任那は、安羅を兄として、ただその考えだけに従う。安羅人は、日本府を天神と考え、ただその考えだけに従う。唯其の意にのみ從ふ。今、的の臣と吉備の臣・河内の直達は、ことごとく、移那斯と麻都の指図に従うだけだ。移那斯と麻都は、多少身分が低い家系だが、日本府の政治をかって気ままにしている。また任那を抑えて、使者の邪魔をする。このため、同じように、天皇に答えることが出来なかった。それで、己麻奴跪を留めて、別に飛ぶ鳥のような早駆けの使者を派遣して、天皇に奏上した。仮に二人が、安羅にいて、なんどもこびへつらって騙したなら、任那を建てれなく、海の西の諸国は、きっと仕えてくれない。土下座してお願いします。この二人を本国に帰国させてほしい。勅書で日本府と任那とを説得して、任那の再建を図ってください。それで、私は、奈率の彌麻沙と奈率の己の連達を派遣して、己麻奴跪に従わせて、上表文で聞いた。そこで、『的の臣達が、新羅に行ったのは、私の本意ではない。以前、印支祢と阿鹵旱岐がいる時に、新羅に迫られて、耕して種を播けなかった。百済は、遠くて、急に救えなかった。的の臣達が新羅に行くことで、耕して種を播くことが出来たのは、私の曽祖父が言っていたことだ。もし任那を建てたら、移那斯と麻都は、自ずと退くだろう。言うまでもない』と詔勅した。土下座してこの詔勅をきいて、嬉しいやら畏まるやら、二つの気持ちが湧いてきた。それで新羅が、朝廷を騙したのは、天勅ではなかったことを知った。新羅は、春に㖨淳を奪い取る。それで私の久禮山の郡を退けて、占領した。安羅に近い所で、安羅が耕し種を播いている。久禮山に近き所を、斯羅が耕し種を播く。夫々自分で耕してお互いに侵略して略奪しなかった。しかし、移那斯と麻都は、他国の境界を越えて耕し、六月になると逃げ去った。印支弥が後から来て、許勢の臣の時に、新羅は、やはり他国の境界を侵略しなかった。安羅は、新羅に攻められて耕して種を播くことが出来ないと言わなかった。私は、かつて、新羅が、春と秋いつも、たくさん兵を集めて、安羅と荷山とを襲おうと思っていると聞き、あるいは加羅を襲うべきだと聞いたちょうどこの時期に、それは、兵士を派遣して、任那を助けて守れと言われと手紙を貰って、くつろぐ暇がなく、精鋭の兵を何度も派兵して、時期に合わせて救いに行った。これで、任那は、順を追って耕し種を播いた。新羅は、敢えて侵略しなかった。それで百済が、遠いので、急いで救うことが出来ないので、的の臣達が、新羅と行き来するから、耕して種を播けると奏上するのは、もっぱら天朝にこびへつらって欺いたことということです。このように、よく知っていても、天朝を欺く。それ以外でも、うそいつわりがきっと多く有る。的の臣達が、それでも安羅に住むなら、任那の国は、恐らく再建できない。早く退却させてほしい。私が、一番恐れているのは、佐魯麻都が、韓の生まれと言っても、位は大連である。日本の庶務官の中に混じって、どんどん偉くなって分け前で栄えた一人だ。それで今、反逆して新羅の奈麻禮の冠をつけている。すなわち、身も心も他国に付き従ているのが解りやすい。慣れた行いを見ていると、恐れ怯えることが全くない。それで、以前に、聞いた汚い行いを詳しく記して奏上した。今もなお、他国の服を着て、いつも新羅の城に赴いて、公私関係なく行き来しても、全くためらわない。その㖨の国が滅んだのはそれ以外の理由ではない。㖨の国の函跛旱岐が、加羅の国を裏切って、新羅と打ち合わせて、加羅が、内と外の敵と一緒に戦った。このために滅びた。もし函跛旱岐が、裏切らなかったら、㖨の国が小国とはいえ、必ずしも滅びなかったかもしれない。卓淳もまた同じだ。仮に卓淳の国の主が、敵の新羅と共謀して引き入れなければ、どうして滅びることになろうか。諸国の敗れて滅びるという災難を見てみると、皆、敵と共謀して裏切る者がいたからだ。今、麻都達は、新羅に心底信頼して、とうとうその服を着て、朝出かけて夜に帰って、密かによこしまな計画を立てている。それで、恐れているのは、任那がこれで永遠に滅んでしまうことです。任那がもし滅んだら、私の国が孤立して危ない。朝廷に仕えようと思っても、どうしたらずっと仕えることが出来ましょうか。土下座してお願いするのは、天皇が、先のことを見通して思いやり、裏切り者を速やかに本国に引き戻して、任那を安心させてください」と言った。冬十月に、百済の使者の奈率の得文と奈率の奇麻達が帰った。十一月に、百済は、使者を派遣して、日本府の臣と任那の庶務官を呼び出して、「天皇に派遣した、奈率の得文と許勢の奈率の奇麻と物部の奈率の奇非達が、日本から帰った。今、日本府の臣と任那の国の庶務官が、やって来て詔勅を聞いて、みなで任那をなんとかしろ」と言った。日本の吉備の臣と安羅の下の旱岐の大不孫と久取柔利と加羅の上の首位の古殿奚と卒麻の君と斯二岐の君と散半奚の君の子と、多羅の二首位の訖乾智と、子他の旱岐と、久嗟の旱岐が、一緒に百済へ赴いた。それで、百済の王の聖明は、「私は、奈率の彌麻佐と奈率の己の連と奈率の用奇多達を派遣して、日本に朝貢した。『早く任那を建てよ』と詔勅があった。また、津守の連が、詔勅を受けて、任那を再建したかと問われた。それで、招集のため派遣した。いつどうやって、任那を建てられるか、どうか皆考えを述べなさい」と詔勅の中身の概略を示して言った。吉備の臣と任那の旱岐達が「任那の国を建てられるのは、ただ大王だけだ。おねがいです、王に従って一緒に奏上して詔勅を実行しましょう」と言った。聖明王は「任那の国と私の百済と、昔から、子だ弟だと約束した。今、日本府の印岐祢が、もう新羅を討って、私も征伐しようとしている。また、喜んで新羅のでたらめやごまかしの言葉を聞く。その印岐祢を任那に派遣したのは、本来その国を侵略して危害を与えようとしてのことではない。昔から今に至るまで、新羅は、導かないでうそをつき信頼を損なって、卓淳を滅ぼした。頼みとする国が、気持ちよく助けようとしても、くやしい気持ちが返ってくる。それで、召集の使者を派遣して、一緒に情け深い詔勅を聞いて、出来たら、任那の国を再興して引き継ぎ、一層昔の様に、ずっと兄弟でいたい。ひそかに聞いたところ、新羅と安羅の、両国の国境に、大きな河が有る。地形がけわしく守りに有利な土地だ。私は、これを拠点に、六城を元のように取り返そうと思う。つつしんで天皇の三千の兵士を要請して、城毎に五百人を充て、あわせて私の兵士で、田を作らせないよう、煩わせるようにすれば、久禮の山の五城の人は、自づからに武器を放り出して頭を下げてくるだろう。貞淳の国も、再興できる。願い出る兵士には、私の、軍服と兵糧を与えよう。天皇に奏上しようと思う、これが策の一つだ。やはり南の韓に、郡令と城主を置くことは、決して天皇の約束に背き、調を貢ぐ路を遮ろうとしない。ただ、民衆も、多くの困難が有っても、助けて、強敵をたいらげて皆ごろしにして打ち勝つだけだ。ほとんどのその悪者の仲間が、誰につくか考えさせてはいけない。北の敵は強く大きな国だが、私の国は小国で弱い。もし南の韓に、郡領と城主を置いて、再建して守らなければ、この強敵を防げない。まただから新羅も抑えられない。それでやはり置いて、新羅を攻撃して、任那をそのままにしておこう。もしそうでなければ、おそらく滅亡して、朝貢出来ない。天皇に奏上しようとする、その策の二つ目だ。また吉備の臣と河内の直の移那斯と麻都が、相変わらず任那国に居るのなら、天皇は、任那の再建をしろと詔勅しても、できない。できるなら、この四人を免職して、夫々の本邑に返してほしい。天皇に奏上する、その策の三つ目だ。日本の臣と任那の旱岐達とが、一緒に使者を派遣して、同じく天皇に奏上して、情け深い詔勅を聞かせてほしいと言った。そこで、吉備の臣と旱岐達は、「大王の述べた三つの策は、やはり、私の気持ちにかないます。今、出来たら、帰ってつつしんで日本の大臣と安羅の王と加羅の王に言って、一緒に使者を派遣して同じように天皇に奏上しよう。これは本当に千回運んだ中の一回の機会かどうかの約束で、よく考えて、よく計画を練りましょう」と言った。】とある。

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