2020年5月29日金曜日

最終兵器の目 欽明天皇 7

 『日本書紀』慶長版は
十二月越國言於佐渡嶋北御名部之𥔎岸有肅愼人乗一舩舶而淹留春夏捕魚充食彼嶋之人言非人也亦言鬼魅不敢近之嶋東禹武邑人採拾椎子爲欲熟喫著灰裏炮其皮甲化成二人飛騰火上一尺餘許經時相鬪邑人深以爲異取置於庭亦如前飛相鬪不巳有人占云是邑人必爲魃鬼所迷惑不久如言被其抄掠於是肅愼人移就瀬河浦浦神嚴忌人不敢近渇飲其水死者且半骨積於巖岫俗呼肅愼隈也六年春三月遣膳臣巴提便使于百濟夏五月百濟遣奈卒其㥄奈卒用歌多施德次酒等上表秋九月百濟遣中部護德菩提等使于任那贈吳財於日本府臣及諸旱岐各有差是月百濟造丈六佛像製願文曰蓋聞造丈六佛功德甚大今敬造以此功德願天皇獲勝善之德天皇所用弥移居國倶蒙福祐又願普天之下一切衆生皆蒙解脱故造之矣冬十一月膳臣巴提便還自百濟言臣被遣使妻子相逐去行至百濟濱日晩停宿小兒忽亡不知所之其夜大雪天曉始求有虎連跡臣乃帶刀擐甲尋至巖岫拔刀曰敬受絲綸劬勞陸海櫛風沐雨藉草班荊者爲愛其子令紹父業也惟汝威神愛子一也今夜兒亡追蹤覔至不畏亡命欲報故來既而其虎進前開口欲噬巴提便忽申左手執其虎舌右手刺殺剥取皮還是歲髙麗大亂被誅殺者衆
十二月に、越の国が、「佐渡の嶋の北の御名部の碕の岸に、肅愼人が漂着して、一艘の船が停泊した。春から夏に魚を取って食事に充てた。その嶋の人は、人と思えないと言った。また鬼や化け物のようだと言って、敢えて近づこうとしなかった。嶋の東の禹武の邑の人が、椎の実を採取して煮て食べようと思った。灰の中に置いて焙った。その皮が、二人の人間になって、火の上に30cm以上飛上った。少し経って二人は戦った。邑の人はとても奇妙に思い、庭に放置した。また前の様に飛んで、二人とも戦いを止めなかった。或る人が占て『この邑の人は、きっと鬼や化け物に迷わされた』と言った。まもなく、言った通り掠め取られた。それで、肅愼人は、瀬波河の浦に移って行った。浦の神は厳しく出入りを禁じるので、敢て近づかなかった。のどが渇いてそこの水を飲んだら半分が死んだそうだ。屍を巖の岫に積み上げた。俗に肅愼の隈と呼んだ」と言った。六年の春三月に、膳の臣の巴提便を派遣して、百済への使者とした。夏五月に、百済は、奈卒の其㥄と奈卒の用奇多と施徳の次酒達を派遣して表を奏上した。秋九月に、百済は、中部の護徳の菩提達を派遣して、任那への使者とした。呉の財物を日本府の臣および諸々の旱岐に夫々差をつけて贈った。この月に、百済は、丈六の佛像を造った。願文を作って、「概略を聞いたが、丈六の佛像を造ると功徳がとてもある。今、敬って造った。この功徳で、できたら、天皇が、勝れた徳を得て、天皇が使う、弥移居の国、が共に天のめぐみを被るように、また出来ましたら、大地をあまねくおおい、この世に生きているすべてのものが皆、解脱出来るようにと造った」と願った。冬十一月に、膳の臣の巴提便が、百済から帰って、「私が使者で派遣されたとき、妻子が、相次いで死んだ。百済の浜に行き着いて、日が暮れたので停泊した。小児が急死したと知らせが有った。その夜は大雪だった。空が明るくなって初めに辺りを見ると、虎が歩いた跡が有った。私は、それで刀を帯びて甲を身に着けて、巖の岫に探し至った。刀を拔いて、『つつしんで詔勅を受けて、陸に海に雨や風にさらされて苦労して働き、草を敷いて、茨の中を分け入ることは、我が子を愛するので父の地位を受け継がせるためだ。よく考えれば、お前は人を恐れさせる神だから、愛する子など一噛みだ。今夜、子が死んだ。跡を追って探し求めてやってきた。命を落とすことを恐れず、復讐するためにやってきた』と言った。すでにその虎は、前に進んで、口を開けて噛みつこうとした。巴提便は、すぐに左手を伸ばして、その虎の舌を掴んで、右の手で刺し殺して、皮を剥ぎ取って帰った」と言った。この年に、高麗で大乱があり、誅殺された者が多かった。】とある。
前項でも記述したように、この百済の仏像記事は朔の日干支も記述されず、俀国の記事の可能性が高く、丈六は1.8m位と考えられるが、飛鳥佛四天王立像持国天が133cm、増長天が135cm、広目天が133cm、多聞天が134cm、救世観音像は高さ180cmで丈六は135cmの可能性が高い。
百済は『三国史記』に枕流王元年384年に「九月胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮內禮敬焉 佛法始於此」と384年から仏教が導入されていて、日本は『梁書』に「宋大明二年賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像敎令出家風俗遂改」と457年に仏教が入り、記事は合致せず、それに対して、俀国はその友好国の新羅が『三国史記』で法興王十五年528年に「肇行佛法」と仏教流入が遅く、545年、実際はもう少し以前に天皇への贈り物を奪い、驚きをもって目の当たりにしただろう。
『三国史記』では545年は陽原王元年で大乱の様子が無く、十三年557年に「夏四月立王子陽成爲太子遂宴群臣於内殿冬十月丸都城干朱理叛伏誅」と反乱があり、高句麗も立太子は普通記述されず、王が即位した時長男が幼少の時は弟が太子になり、長男が大きくなった時に太子を交代した可能性が有り、557年は皇太子の交代があり、前皇太子が反乱を起こし誅殺された可能性が有り、『日本書紀』の記事はこの事件が対応していそうで、ある王の6年が557年に当たり、俀国王葛子の子の可能性が有る。

0 件のコメント:

コメントを投稿