「七年春正月甲辰朔丙午百濟使人中部奈卒巳連等罷歸仍賜以良馬七十匹舩一十隻夏六月壬申朔癸未百濟遣中部奈卒掠葉禮等獻調秋七月倭國今來郡言於五年春川原民直宮登樓騁望乃見良駒睨影髙鳴輕超母脊就而買取襲養兼年及壯鴻驚龍翥別輩越群服御隨心馳驟合度超渡大內丘之壑十八丈焉川原民直宮檜隈邑人也是歲髙麗大亂凢鬪死者二千餘八年夏四月百濟遣前部德卒真慕宣文奈卒歌麻等乞救軍仍貢下部東城子言代德卒汶休麻那九年春正月癸巳朔乙未百濟使人前部德卒真慕宣文等請罷因詔曰所乞救軍必當遣救宜速報王夏四月壬戌朔甲子百濟遣中部杆率掠葉禮等奏曰德率宣文等奉勅至臣蕃曰所乞救兵應時遣送祗承恩詔喜慶無限然馬津城之役虜謂之曰由安羅國與日本府招來勸罸以事准況寔當相似然三𢌞欲審其言遣召而並不來故深勞念伏願可畏天皇先爲勘當暫停所乞救兵待臣遣報詔曰式聞呈奏爰覿所憂日本府與安羅不救隣難亦朕所疾也又復密使于髙麗者不可信也朕命即自遣之不命何容可得願王開襟緩帶恬然自安勿深疑懼宜共任那依前勅戮力倶防北敵各守所封朕當遣送若干人充實安羅逃亡空地六月辛酉朔壬戌遣使詔于百濟曰德卒宣文取歸以後當復何如消息何如朕聞汝國爲狛賊所害宜共任那策勵同謀如前防距閏七月庚申朔辛未百濟使人掠葉禮等罷歸冬十月遣三百七十人於百濟助築城於得爾辛」
【七年の春正月の朔が甲辰の丙午の日に、百済の使者の中部の奈卒の己連達が帰った。それで良馬を七十匹と船を十隻を与えた。夏六月の朔が壬申の癸未の日に、百済が、中部の奈卒の掠葉禮達を派遣して年貢を献上した。秋七月に、倭国の今来の郡が「五年の春に、川原の民の直の宮が櫓に駆け上って臨み見て、良馬を見つけた。馬は影を見て声高に啼き、軽やかに母馬の背中を飛び越えた。出かけて行って買い取った。何年か飼い続けて、古馬になったら龍が羽ばたくオオハクチョウのように驚かした。他の馬たちと比べると群を抜き、乗ると服はみだれず、一緒に走り回ると歩調を合わせ、大内の丘の十八丈の谷を超えて渡る。川原の民の直の宮は、桧隈の邑の人だ」と言った。この歳に、高麗に大乱があった。闘って死者が全部で二千人余りだった。八年の夏四月に、百済が、前部の徳卒の眞慕宣文と奈卒の奇麻達を派遣して救援軍を願い出た。それで下部の東城子言を推挙して、徳卒の汶休麻那に代えた。九年の春正月の朔が癸巳の乙未の日に、百済の使者の前部の徳卒の眞慕宣文達が、帰りたいと願い出た。それで「願い出た救援軍は、救いに派遣しなければならない。すぐに王へ報告しなさい」と詔勅した。夏四月の朔が壬戌の甲子の日に、百済の中部の杆率の掠葉禮達を派遣して「徳率の宣文達が、詔勅を聞いて私の蕃に来て『願い出た救援の兵を時期に合わせて派遣すると言った』と言った。つつしんで情け深い詔勅を聞いて、とても喜ばしいことこのうえない。しかしながら馬津の城の闘いの時、捕虜に『安羅国と日本府とが招いたからやって来て、言われるまま懲罰した』と言った。それを見たらとてもよく似ている。しかも三回もこまかくしらべようとして、呼び出したがどちらもやってこなかった。それで心から心配しています。土下座してお願いしますのは、畏れ多い天皇は、先に調査の為、少しの間願い出た救援軍をとどめておいて私が報告の使者を派遣するのを待ってほしい」と奏上した。「作法通りの奏上の言葉を聞いて、憂いていることを見てみると、日本府と安羅とが、隣国の困難を救わないことは、私も苦しみ悩んでいる。また高麗に密かに使者を派遣することは、信頼できることでは無い。私が命じればすすんで派遣するだろうが、命じずにどうしてたやすく出来るだろうか。出来たら、王が、胸襟を開いて安心して、平然として、自分から気を緩めてあまり疑って不安がるな。任那が以前の詔勅通り力を合わせて一緒に北の敵から守るべきだ。私はある程度の者を派遣して、安羅が逃げて滅んで誰もいなくなった土地を豊かにしなければならない」と詔勅した。六月の朔が辛酉の壬戌の日に、使者を派遣して百済に「徳卒の宣文と交代してまた本国に帰った後、どうなった。状況はどうだ。私は聞いたが、お前の国は、狛の賊の為に被害に遭ったと。任那と共に、策をねって励み一緒に考えて以前の様に拒んで守れ」と詔勅した。閏七月の朔が庚申の辛未の日に、百済の使者の掠葉禮達が帰った。冬十月に、三百七十人を百済に派遣して、得爾辛を助けて城を築いた。】とあり、七年正月甲辰朔は6年12月30日、九年正月癸巳朔は8年12月30日と前月が小の月なら標準陰暦に合致し、九年六月辛酉朔は閏5月1日で、他は標準陰暦と合致する。
この項は朔の日干支を記述していて、『梁書』に「扶桑國者・・・貴人第一者爲大對盧第二者爲小對盧」と扶桑国の冠位に『三国志』「高句麗・・・其官有相加對盧沛者」、『周書』「高麗者・・・大官有大對盧次有太大兄大兄小兄」と高句麗の冠位が導入されていることから、高句麗との交流があって情報が入ってきていて、朝廷の資料と考えられるが、『舊事本紀』に記述されていないので、巨勢氏の資料で巨勢王朝崩壊後も巨勢氏が高句麗との交流を持っていたことが考えられる。
「馳驟合度超渡大內丘之壑十八丈焉」は丈が180cmなら20mで人間の走り幅跳びの記録は9mで、丈が135cmなら十八丈は15mでこちらの方が有り得そうだ。
九年は548年の陽原王四年で『三国史記』に「春正月以兵六千攻百濟獨山城新羅將軍朱珍來援故不克而退」のように新羅が援軍を出していて合致せず、529年の安臧王十一年「冬十月王與百濟戰於五谷克之殺獲二千餘級」、聖王七年「冬十月高句麗王興安躬帥兵馬來侵拔北鄙穴城命佐平燕謨領步騎三萬拒戰於五谷之原不克死者二千餘人」が考えられる。
文咨明王の時代のほうが506年の十五年「冬十一月遣將伐百濟」、507年の十六年「冬十月欲攻百濟漢城進屯於橫岳下百濟出師逆戰乃退」、512年の二十一年「秋九月侵百濟陷加弗圓山二城虜獲男女一千餘口」のように百済と多く戦っているが、聖明王と異なり、継体元年が517年で、秦王国以前の巨勢王朝の事件でピントがずれているように思う。
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