2020年6月17日水曜日

最終兵器の目 欽明天皇 15

 『日本書紀』慶長版は

十七年春正月百濟王子惠請罷仍賜兵仗良馬甚多亦頻賞祿衆所欽歎於是遣阿倍臣佐伯連播磨直卒筑紫國舟師衞送達國別遣筑紫火君卒勇士一千衞送?()弖因令守津路要害之地焉秋七月甲戌朔巳卯遣蘇我大臣稻目宿祢等於備前兒嶋郡置屯倉以葛城山田直瑞子爲田令冬十月遣蘇我大臣稻目宿祢等於倭國髙市郡置韓人大身狹屯倉髙麗人小身狹屯倉紀國置海部屯倉十八年春三月庚子朔百濟王子餘昌嗣立是爲威德王二十一年秋九月新羅遣?()至己知奈末獻調賦饗賜邁常奈末喜歡而罷曰調賦使者國家之所貴重而私議之所輕賤行李者百姓之所懸命而選用之所卑下王政之弊未必不由此也請差良家子爲使者不可以卑賤爲使

十七年の春正月に、百済の王子の惠が、帰りたいと願い出た。それで武器と良馬をたくさん与えた。また何度もほうびとして禄を与え、人々は称賛した。それで、阿倍の臣と佐伯の連と播磨の直を派遣して、筑紫国の海軍を率いて、護衛して送り届けた。特に筑紫の火の君を派遣して、勇士千人を率いて、護衛して弥弖に送らせた。それで港につながる路の要害の地を守った。秋七月の朔が甲戌の己卯の日に、蘇我の大臣の稻目の宿禰を備前の兒嶋の郡に派遣して、屯倉を置かせた。葛城の山田の直の瑞子を田令にした。冬十月に、蘇我の大臣の稻目の宿禰達を倭國の高市の郡に派遣して、韓人の大身狹の屯倉と高麗人の小身狹の屯倉を置かせた。紀國に海部の屯倉を置いた。十八年の春三月の庚子が朔の日に、百済の王子の餘昌が、跡を継いだ。

威徳王という。二十一年の秋九月に、新羅は、彌至己知の奈末を派遣して年貢を献上した。饗応していつもより多く返礼を与えた。奈末は、喜歡して帰ろうとして、「年貢の使者は、国家にきわめて大切な者を就任させるけれど、私の考えでは、軽んじられて卑しい。百姓が使者になると全力を尽くすが、選んで用いるとへりくだる。王の政策が疲弊するのは卑しい年貢の使者でなければ疲弊はしない。出来ましたら良家の子供を使者にして、身分や地位が低い者を年貢の使者にしてはいけない」と言った。】とあり、七月甲戌朔は閏6月2日で6月は小の月でほゞ合致する。

筑紫君が糟屋の屯倉を献上した同じ時期に、佐伯連も欽明天皇十五年「筑紫諮內臣佐伯連等」と葛子と行動を共にし、佐伯氏は仁徳天皇四十年「播磨佐伯直阿俄能胡曰」と播磨国造で伊勢遺跡の女王の雌鳥皇女の天皇の璽を奪った氏族で「射殺市邊押磐皇子皇子帳内佐伯部賣輪」と巨勢氏の仁賢・顕宗兄弟を救って、顕宗天皇即位前紀「遁入播磨縮見山石室」と播磨に隠れていて、仁賢天皇五年「以佐伯部仲子之後爲佐伯造」となった家系と関係が有りそうで、崇峻天皇即位前紀「佐伯連丹經手等圍穴穗部皇子宮」とやはり馬子の配下として活躍している。

すなわち、巨勢氏の領域だった備前は稲目が領有し、播磨は馬子の影響下になった事を示し、『梁書』の大漢国と扶桑国の国境間が「扶桑在大漢國東二萬餘里」とあり広島・岡山間が当たると述べたが、その国境を越えて大漢国王の稲目が巨勢氏の王朝の扶桑国の旧領の岡山の備前を領有したというのだ。

そして、文身国王の馬子が糟屋を手に入れて倭国王となり、『隋書』に大漢国が記載されていないのだから、同じ蘇我氏の馬子の国の倭国に吸収されたと考えられ、「筑紫火君百濟本記云筑紫君兒火中君弟」と俀国王の筑紫君葛子の子の筑紫火君と行動を共にし、白雉四年に「巨勢臣藥藥豐足臣之子」と倭国の旧領の豊国を治める王となっていて、倭国人脈が播磨以西の大きな領域を形成した。

『舊事本紀』の欽明天皇の項は830文字、『日本書紀』は約1300文字と雲泥の差の文字数を記述しているが、これは、俀国倭国の記事が記述され、この朝廷も大漢国稲目の可能性を否定できず、なぜなら、『隋書』には俀国は大枠の国、倭国はまだ未承認の国、秦王国は筑紫国と同等の枠の中の国として記述しているからだ。


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