2020年6月24日水曜日

最終兵器の目 欽明天皇 18

 『日本書紀』慶長版は

八月天皇遣大將軍大伴連狹手彥領兵數萬伐于髙麗狹手彥乃用百濟計打破髙麗其王踰墻而逃狹手彥遂乗勝以入宮盡得珍寶?()賂七織帳鐵屋還來以七織帳奉獻於天皇以甲二領金

飾刀二口銅鏤鍾三口五色幡二竿美女媛幷其從女吾田子送於蘇我稻目宿祢大臣於是大臣遂納二女以爲妻居輕曲殿冬十一月新羅遣使獻幷貢調賦使人悉知國家憤新羅滅任那不敢請羅恐致刑戮不歸本土例同百姓今攝津國三嶋郡埴廬新羅人之先祖也二十六年夏五月髙麗人頭霧唎耶陛等投化於筑紫置山背國今畝原奈羅山村髙麗人之先祖也二十八年郡國大水飢或人相食轉傍郡穀以相救三十年春正月辛卯朔詔曰量置田部其來尚矣年甫十餘脱籍兔課者衆宜遣膽津撿定白猪田部丁籍夏四月膽津撿閲白猪田部丁者依詔定籍果成田戸天皇嘉膽津定籍之功賜姓爲白猪史尋拜田令爲瑞子之副

八月に、天皇は、大將軍の大伴の連の狹手彦派遣して、兵士数万人を率いて、高麗を伐った。狹手彦は、それで百済の計略を使って、高麗を打ち破った。その王は、塀を飛び越えて逃げた。狹手彦は、とうとう勝ち名乗りを上げて宮殿に入城し、ありったけの珍宝、金銭、宝石、七織の帳、鉄も屋根板を得て帰った。七織の帳を、天皇に奉献した。甲二領と金飾りの刀二口と銅製の飾り鐘三口と五色の幡二竿と美女の媛、併せてその侍女の吾田子を、蘇我の稻目の宿禰の大臣に送った。そこで、大臣は、とうとう二人の女を後宮に入れて、妃として、輕の曲殿に住まわせた。冬十一月に、新羅は、使者を派遣して献上し、併せて年貢も貢上した。使者は、新羅が任那を滅ぼしたことを朝廷が怒っていることを良く知って、怖くて帰ると願わなかった。た、帰っても刑罰に処されること恐れて本国に帰らず、我が国の百姓と同じように過ごした。今の攝津の国の三嶋の郡の埴廬の新羅人の先祖だ。二十六年の夏五月に、高麗人の頭霧の唎耶陛が、筑紫に帰化して、山背国に置いた。今の畝原・奈羅・山村の高麗の人の先祖だ。二十八年に、郡国で、洪水が発生して飢饉になって、ある者は人食いをしたが、隣の郡の穀物を轉んで助け合った。三十年の春正月の辛卯が朔の日に、「田部を調べたが、それからだいぶ経った。年齢が14・5才になっても、籍からもれて課役を逃れる者が多い。膽津を派遣して、白猪の田部の働き盛りの者の戸籍を調べて決めなさい」と詔勅した。夏四月に、膽津は、白猪の田部の青年を調べて数え、詔勅のとうりに家族構成がある戸籍を決めた。それで、田を持つ家の構成人員を記載して戸籍とした。天皇は、膽津が籍を定めた功績を喜んで、姓を与えて白猪の史として用いて田令を拝命し瑞子が次席となった。】とあり、標準陰暦と合致する。

『三国史記』で高句麗が領内に攻め込まれたのは550年の陽原王六年「春正月百濟來侵陷道薩城三月攻百濟金城新羅人乘間取二城」だけで、それ以前なら502年文咨明王十一年「冬十一月百濟犯境」、503年文咨明王十二年「冬十一月百濟遣達率優永率兵五千來侵水谷城」だが崇峻天皇三年「度尼大伴狭手彦連女善徳」と整合性が無くなる。

そして、戦利品も天皇に対する献上品と比べると稲目への献上品の豪華さが際立ち、推古天皇十年「大伴連囓坂本臣糖手共至自百濟」と妻を見捨てた河邊臣の義父も大伴連も百済に滞在し、稲目もやはり一時百済に滞在した可能性が有る。

また、膽津が白猪史の賜姓をされ、欽明天皇十四年「王辰爾爲船長因賜姓爲船史」、敏達天皇三年「船史王辰爾弟牛賜姓爲津史」と同族が賜姓されて、王辰爾は辰斯王の子の辰孫王の後裔とされて、君の氏姓を得たとされているが、膽津も牛も君が付加されず、王辰爾も辰孫王のように辰爾王や辰爾君と記述されるべきだが記述されず、百済の官僚のように思われる。

朝鮮では中国や日本とちがい、皇太子ではなく『三国史記』新羅眞興王二一十七年「立王子銅輪爲王太子」、高句麗慕本王元年「立王子翊爲王太子」と王太子、百済は義慈王四年「立王子隆爲太子」とただの太子で百済は名目上独立国ではなく国王ではなく従属した王のようで、皇太子は皇帝の太子、王の中の王である皇帝の太子を意味していて、百済王は君だが、それ以外の百済人が君と呼ばれることはなく、新羅と高句麗は独立した王だがその王に従属する王はいないようだ。   

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