『日本書紀』慶長版は
「渟中倉太珠敷天皇天國排開廣庭天皇第二子也母曰石姫皇后天皇不信佛法而愛文史二十九年立爲皇太子三十二年四月天國排開廣庭天皇崩元年夏四月壬申朔甲戌皇太子即天皇位尊
皇后曰皇太后是月宮于百濟大井以物部弓削守屋大連爲大連如故以蘇我馬子宿祢爲大臣五月壬寅朔天皇問皇子與大臣曰髙麗使人今何在大臣奉對曰在於相樂館天皇聞之傷惻極甚愀然而歎曰悲哉此使人等名既奏聞於先考天皇矣乃遣群臣相樂館撿錄所獻調物令送京師丙辰天皇執髙麗表䟽授於大臣召聚諸史令讀解之是時諸史於三日內皆不能讀爰有舩史祖王辰尓能奉讀釋由是天皇與大臣倶爲讚美曰勤乎辰爾懿哉辰爾汝若不愛於學誰能讀解冝從今始近侍殿中既而詔東西諸史曰汝等所習之業何故不就汝等雖衆不及辰爾又髙麗上表䟽書于烏羽
字隨羽黒既無識者辰爾乃蒸羽於飯氣以帛印羽悉寫其字朝庭悉異之六月髙麗大使謂副使等曰磯城嶋天皇時汝等違吾所議被欺於他?(汝)分國調輙與微者豈非汝等過歟其若我國?(王)聞必誅汝等副使等自相謂之曰若吾等至國時大使顯噵吾過是下祥事也思欲偸殺而斷其口是夕謀泄大使知之裝束衣帶獨自潛行立館中庭不知所計時有賊一人以杖出來打大使頭而退次有賊一人直向大使打頭與手而退大使尚嘿然立地而拭面血更有賊一人執刀急來刺大使腹而退是時大使恐伏地拜後有賊一人既殺而去明旦領客東漢坂上直子麻呂等推問其由副使等乃作矯詐曰天皇賜妻於大使大使違勅不受無禮茲甚是以臣等爲天皇殺焉有司以禮收葬秋七月
髙麗使人罷歸是年也太歲壬辰」
【渟中倉太珠敷天皇は、天國排開廣庭天皇の第二子だ。母を石姫皇后という。天皇は、佛法を信じないで、学問や歴史が好きだった。二十九年に、皇太子となった。三十二年の四月に、天國排開廣庭天皇が崩じた。元年の夏四月の朔が壬申の甲戌の日に、皇太子は、天皇に即位した。皇后を尊んで皇太后と言った。この月に、百濟の大井に宮を造った。物部の弓削の守屋大連を大連にしたのは前のとおりだ。蘇我の馬子の宿禰を大臣にした。五月の壬寅が朔の日に、天皇は、皇子と大臣に「高麗の使者は、今、どこにいる」と聞いた。大臣は「相樂の館に居ます」と答えた。天皇は聞いて、悲しみ痛ましい事極まりない。憂い嘆いて、「残念だ、この使者達の名はもう亡父の天皇から聞いている」と言った。それで群臣を相樂の館に派遣して、献上された租税の品物を調べて記録し、都に送った。丙辰の日に、天皇は、高麗の上表文を取り上げて、大臣に渡した。諸々の通訳を呼んで読み解かせた。この時に、諸々の通訳が、三日以内に、読むことが出来なかった。そこに船の史の祖の王辰爾がいて、上手く読み解いて奏上した。そのため、天皇と大臣二人とも褒め称えて、「良く務めたな辰爾。立派だっぞ辰爾。お前がもし学問を好かなければ、他の誰が上手く読み解けただろう。今から殿中に従事しなさい」と言った。それで、東から西の全国の諸々の専門家に「お前たちが習っている技術は、何に役立った。お前たちはこんなにいるのに、辰爾におよぶものがいない」と詔勅した。また高麗の上表の文書は、烏の羽に字を書いている。羽が黒いのでで解る者が居なかった。辰爾はそれで羽をご飯を炊く蒸気で羽を蒸らして白色の厚手の絹に押し付けて、残らずその字を写した。朝庭は全てに不思議に思った。六月に、高麗の大使は、副使達に「磯城嶋の天皇の時に、お前たちは、私が思っていることを間違えて、ひとに欺されて、でたらめに国の年貢を分けて、簡単に小者に与えた。それでもお前たちの間違いではないが、これがもし私たちの国王に聞かれたら、きっと私たちを誅殺する」と言った。副使達は、「もし私たちが国に帰った時に、大使が、私達の失敗をあらいざらい教えたら、これは大変な事になる。こっそり殺してその口を塞ごうか」と相談した。その夕方には、陰謀が漏れた。大使がそれを知って、衣装を整えて、一人だけで隠れようと館の中庭に立って、右往左往していた。その時、賊が一人居て、杖を持って出てきて、大使の頭を打って逃げた。次にまた賊が一人いて、大使の正面に立って、頭と手を打って逃げた。大使は、まだ呆然と立ち尽くして、顔の血を拭った。また賊が一人いて、刀を持って急にやって来て、大使の腹を刺して逃げた。この時に、大使は、恐れて土下座して許しを願った。その後で賊が一人いて、とうとう殺し去った。翌朝、客をもてなす責任者の東漢の坂上の直の子麻呂達が、その訳を考えて問いかけた。副使達は、それで「天皇が、妻を大使に与えた。大使は、詔勅を間違えて受けなかった。無礼なこと甚だしくて、私達は、天皇の為に殺した」とでっち上げた。役人たちは、儀礼に従って葬った。秋七月に、高麗の使者が帰った。この歳は、太歳が壬辰だった。】とあり標準陰暦と合致する。
守屋大連が前のとうり大連にしたというのは奇妙で、敏達紀が初出で『舊事本紀』では「池邊雙槻宮物部弓削守屋連公爲大連亦爲」、「弟物部守屋大連公子日弓削大連此連公池身雙槻宮御宇天皇御世爲大連」と用明天皇の大連となっている。
これは、用明天皇の記事で、敏達天皇の時に皇太子の大臣になったことを示しているのであって、目天皇が若くて長男が太子に就任できる年齢に達していなかったため、倭古連が皇太子弓削となり、弓削が敏達天皇として即位した為、守屋が弓削を襲名して皇太子になったことを表している。
そして、敏達紀の王達と一緒に馬子(初代)も敏達天皇として記述され、馬子は次代の天皇として皇太子大臣と記述され、皇太后も以前述べたように筑紫の磐の地の出身の皇后の石姫が皇太后となって畿内の都に移ってもらい、磐の地の王者馬子が物部弓削王朝の後ろ盾となった。
そのため、高麗の使者は馬子の迎賓館で過ごし、接待役は東漢直、磐井の子か孫で、畿内の天皇なら高句麗と同盟関係だったので上表文の解読など何の造作も無いが、馬子たちは百済と同盟関係で高句麗のことはよくわかっていないので、王辰爾が必要だったということだ。
そうでなければ、使者が天皇から妻が与えられたと言われて信じるはずが無いが、物部天皇がどんな約束をしていたか知らない馬子達は信じてしまったのだろう。
また、舩史祖の王辰爾と記述しているが欽明天皇十四年に「王辰爾爲船長因賜姓爲船史今般連之先也」と既に船史を賜姓されていて、558年欽明天皇十四年が敏達元年で欽明天皇十五年に「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」と倭国王渟中倉太珠敷(馬子)が皇太子になったことを示していて、「廿九年立爲皇太子」は俀国の王朝交代(俀国王の弟若しくは叔父が皇太子になった)があったことを示している。
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