『日本書紀』慶長版は
「二年夏五月丙寅朔戊辰髙麗使人泊于越海之岸破舩溺死者衆朝庭猜頻迷路不饗放還仍勅吉備海部直難波送髙麗使秋七月乙丑朔於越海岸難波與髙麗使等相識以送使難波舩人大嶋首磐日狹丘首間狹令乗髙麗使舩以髙麗二人令乗送使舩如此互乗以備姧志倶時發舩至數里許送使難波乃恐畏波浪執髙麗二人擲入於海八月甲午朔丁未送使難波還來復命曰海裏鯨魚大有遮囓舩與檝櫂難波等恐魚呑舩不得入海天皇聞之識其謾語駈使於官不放還國三年夏五月庚申朔甲子髙麗使人泊于越海之岸秋七月巳未朔戊寅髙麗使人入京奏曰臣等去年相逐送使罷帰於國臣等先至臣蕃臣蕃即准使人之禮禮饗大嶋首磐日等髙麗國王別以厚禮禮之既而送使之舩至今未到故更謹遣使人幷磐日等請聞臣使不來之意天皇聞即數難波罪曰欺誑朝庭一也溺殺隣使二也以茲大罪不合放還以斷其罪」
【二年の夏五月の朔が丙寅の戊辰の日に、高麗の使者が、越の海の岸に停泊した。船が壊れて溺れ死んだ者が多数いた。朝庭は、何度も路に迷ったことを疑って、饗応せず、何もしないで返そうと、吉備の海部の直の難波に詔勅して、高麗の使者を送らせた。秋七月の乙丑が朔の日に、越の海の岸に、難波と高麗の使者達が相談して、送使の難波の船に同乗した大嶋の首の磐日と狹丘の首の間狹に、高麗の使者の船に乗らして、高麗の二人を一緒に、送使の船に乗らせた。このように互に交換して乗らせて、よこしまな計略に備えた。同時に船を出して、数里ばかり行って送使の難波が、高波やうねりを畏れて、高麗の二人を捕まえて、海に投げ入れた。八月の朔が甲午の丁未の日に、送使の難波が、帰って来て「海の中に大きな鯨がいて、船で櫂を漕ぐのを遮って食おうとした。難波達は、鯨が船を呑みこむことを恐れて、海に入って逃げれなかった」と復命した。天皇はそれを聞いて、それが嘘と解った。役人に早馬で使者を派遣して、国に返さなかった。三年の夏五月の朔が庚甲の甲子の日に、高麗の使者が、越の海の岸に停泊した。秋七月の朔が己未の戊寅の日に、高麗の使者は、京に入って「私達は、去年、送使に付き従い、国に帰った。私達の中で、私が先に国に着いた。私の国は、それで使者の礼に従って、大嶋の首の磐日達を礼儀どおり饗応した。高麗国の王は、特に手厚く礼儀どおりもてなした。ところが、送使の船は、今になっても帰ってこない。それで、一緒に敬意を払って使者と磐日達を派遣して、私の使者が来ない理由を聞かせてほしい」と奏上した。天皇はそれを聞いて、難波の罪を「朝庭をあざむきたぶらかしたのが、一つの罪だ。隣人の使者を溺れ殺したのが、二つ目の罪だ。この大罪で、放免することができない」と数え上げた。これで断罪した。】とあり、夏五月丙寅朔は5月2日、七月乙丑朔も7月2日で、共に4月は29日まで、6月も29日までの小の月で、大の月なら標準陰暦と合致し、他も標準陰暦と合致する。
ただ、続けて私の計算が小の月が大の月というのは考えにくく、542年なら標準陰暦と合致し、実際の事件が542年と考えられ、巨勢王朝の扶桑国と友好関係だった高句麗が、扶桑国滅亡で新王朝に朝貢しようとしたが、扶桑国の元々の受け入れ港の若狭湾に着いても報告相手が何処かわからず、秦王国側も高句麗との関係が薄く、戸惑った可能性があり、しかも、秦王国は任那再建を百済と交渉し、百済と高句麗が敵対関係で、外交力も弱く、高句麗を利用できなかった可能性がある。
そして、秦王国の実権は蘇我氏に移りつつあり、高句麗と対応したのも欽明天皇十六年「遣蘇我大臣稻目宿禰穗積磐弓臣等使于吉備五郡置白猪屯倉」と稲目の配下の人物で、馬子が吉備を相続しようとしていて、馬子は百済と友好関係である。
そして、大嶋首磐日と狹丘首間狹は任務を完了して高麗へ使者を送り届けていて、名前もしっかり記述されているので、秦王国朝廷の配下のようで、敏達天皇十三年に「播磨國得僧還俗者名高麗惠便」、推古天皇元年「且習内教於高麗僧惠慈」、推古天皇九年「遣大伴連囓于高麗」、推古天皇十三年「高麗國大興王聞日本國天皇造佛像貢上黄金三百兩」から持統元年「以投化高麗五十六人居于常陸國」と継続して友好な国交があった。
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