『日本書紀』慶長版は
「冬十月戊子朔丙申遣蘇我馬子大臣於吉備國増益白猪屯倉與田部即以田部名籍授于白猪史
膽津戊戌詔舩史王辰尓弟牛賜姓爲津史十一月新羅遣使進調四年春正月丙辰朔甲子立息長真手王女廣姫爲皇后是生一男二女其一曰押坂彥人大兄皇子其二曰逆登皇女其三曰菟道磯津具(貝)皇女是月立一夫人春日臣仲君女曰老女子夫人生三男一女其一曰難波皇子其二曰春日皇子其三曰桑田皇女其四曰大派皇子次采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人生太姫皇女與糠手姫皇女二月壬辰朔馬子宿祢大臣還于京師復命屯倉之事乙丑百濟遣使進調多益恒歲天皇以新羅未建任那詔皇子與大臣曰莫懶懈於任那之事夏四月乙酉朔庚寅遣吉士金子使於新羅吉士木蓮子使於任那吉士譯語彥使於百濟六月新羅遣使進調多益常例幷進多多羅湏奈羅和陀發鬼四邑之調是歲命卜者占海部王家地與絲井王家地卜便襲吉遂營宮於譯語田是謂幸玉宮冬十一月皇后廣姫薨五年春三月巳卯朔戊子有司請立皇后詔立豊御食炊屋姫尊爲皇后是生二男五女其一曰菟道具(貝)鮹皇女是嫁於東宮聖德其二曰竹田皇子其三曰小墾田皇女是嫁於彥人大兄皇子其四曰鸕鷀守皇女其五曰尾張皇子其六曰田眼皇女是嫁於息長足日廣額天皇其七曰櫻井弓張皇女」
【冬十月の朔が戊子の丙甲の日に、蘇我馬子大臣を吉備国に派遣して、白猪屯倉と田部とを加増した。それで田部の名寄せの戸籍を作った褒美に、白猪の史の膽津に任せた。戊戌の日に、船の史の王辰爾の弟の牛に詔勅して、姓を与えて津の史とした。十一月に、新羅が、使者を派遣して年貢を献上した。四年の春正月の朔が丙辰の甲子の日に、息長の眞手の王の娘の廣姫を皇后に立てた。皇后は一人の男子と二人の女子を生んだ。その一人を押坂の彦人の大兄の皇子という。二人目を逆登の皇女という。三人目を菟道の磯津貝の皇女という。この月に、一人の夫人を立てた。春日の臣の仲の君の娘の老女子の夫人という。三人の男子と一人の女子を生んだ。一人目を難波の皇子という。二人目を春日の皇子という。三人目を桑田の皇女という。四人目を大派の皇子という。次に下女だった伊勢の大鹿の首の小熊の娘の菟名子の夫人という。太姫の皇女と糠手姫の皇子とを生んだ。二月の壬辰が朔の日に、馬子の宿禰の大臣が、都に帰った。屯倉の事を復命した。乙丑の日に、百済が、使者を派遣して年貢を献上した。献上品はいつもの年より多かった。天皇は、新羅がまだ任那を再建しないので、皇子と大臣とに「任那の事は決して怠ってはならない」と詔勅した。夏四月の朔が乙酉の庚寅の日に、吉士の金子を派遣して、新羅に使者を送った。吉士の木蓮子を任那への使者とした。吉士の譯語彦を百済への使者とした。六月に、新羅は、使者を派遣して年貢を献上し、いつもより多かった。それに併せて多多羅と須奈羅と和陀と發鬼の、四邑の年貢を献上した。この歳に、占い師に命じて、海部の王の邸宅と絲井の王の邸宅を占った。うらなったら、この邸宅を受け継ぐと良いとでた。それで宮を譯語田に設営し、これを幸玉の宮という。冬十一月に、皇后の廣姫が薨じた。五年の春三月の朔が己卯の戊子の日に、役人が、皇后を立てるよう願った。豊の御食炊屋の姫尊を皇后にすることを詔勅した。皇后は、二人の男子と五人の女子を生んだ。一人目を菟道の貝鮹の皇女という。この皇女は東宮の聖徳に嫁いだ。二人目を竹田の皇子という。三人目を小墾田の皇女という。この皇女は彦人の大兄の皇子に嫁いだ。四人目を鸕鷀守の皇女という。五人目を尾張の皇子という。六人目を田眼の皇女という。この皇女は息長の足日廣額の天皇に嫁いだ。七人目を櫻井の弓張の皇女という。】とあり、四年春正月丙辰朔は3年12月30日で12月が小の月なら標準陰暦と合致し、五年春三月己卯朔は2月30日も同様2月が小の月なら標準陰暦と合致、二月壬辰朔は敏達3年の2月と1年違うが、3年2月では3年10月の記事と整合しないから移し替えたと思われ、おそらく、この記述は倭国内の記事と思われ、白猪史膽津の件が正式に朝廷内で承認されたのが10月だった可能性があり、それ以外は標準陰暦と合致する。
敏達紀も『日本書紀』約3650字、『舊事本紀』が約860字と『舊事本紀』が圧倒的に少なく、ここの記事も倭国・俀国などの記述が多くあるようだ。
『日本書紀』と同様に『舊事本紀』に「三曰小墾田皇女嫁於彦人大兄王」、「六曰田眼皇女嫁息長足行廣額天皇」と記述するが、なぜだか「息長足日廣額天皇渟中倉太珠敷天皇孫彦人大兄皇子之子也母曰糠手姫皇女」と糠手姬皇女に関しては息長足日廣額天皇の母と『日本書紀』も『舊事本紀』も「長日太娘皇女更名櫻井皇女少日糠手姬皇女更名田村皇女」と記述していない。
これは、「采女伊勢大鹿首小熊女曰菟名子夫人」の子ではない舒明天皇の母糠手姬皇女が存在する、父が敏達天皇では無い舒明天皇の母糠手姬皇女が存在することを意味し、舒明天皇の祖父の天皇も実際は物部敏達天皇でなく、父も物部敏達天皇の子の彦人大兄皇子と異なる人物の可能性が高い事を示している。
敏達天皇の妃も皇子も一人の敏達天皇の妃達、皇子達ではない、複数の王の妃や皇子を記述していることを示している。
『隅田八幡神社人物画像鏡』に623年「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」と記述された鏡があり、開中費に作鏡を命じているのだから高位の人物嶋おそらく嶋大臣、推古天皇二八年「皇太子嶋大臣共議之録天皇記及國記」と馬子大臣が日十大王の弟(竹田皇子)に贈り物をしているが、大王というのは皇太子か大臣それとも独立した君と呼ばれる王たちだが、用明天皇二年「遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像厭之」と皇太子に彦人、彦は将軍を意味する言葉で「人」が名で意柴沙加イコール押坂と考えられる。
この、実在と言える彦人と妻糠手姬の子が舒明天皇と記述しないで田眼皇女が舒明天皇に嫁ぐとしたのは、田眼皇女の夫の舒明天皇と違う舒明天皇が存在して、田眼皇女の夫の舒明天皇は『日本書紀』の崇峻天皇まで書いた頃、『舊事本紀』の天皇紀を書いた頃の舒明天皇と違う、それ以降に登場する舒明天皇が存在することを示し、少なくとも2人の舒明天皇が存在することを示している。
そして、『古事記』も「日子人太子娶鹿(庶)妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と『日本書紀』舒明紀を支持しているということは、『古事記』が葛城氏・蘇我氏の歴史を書いた書物なのだから、馬子若しくは稲目の皇子の彦人が義理の妹で敏達天皇の娘の糠代比賣を娶ってできた皇子が舒明天皇だと述べているのだ。
『古事記』は彦人が皇太子で『舊事本紀』は『日本書紀』と同様「東宮聖德太子」と観ている王朝が異なっている、元明天皇の系図が『古事記』の系図、『舊事本紀』や『日本書紀』と異なる系図を持った人物である可能性が高い。
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