この項は「火葦北國造阿利斯登子達率日羅」と火国の中の葦北国の国造の子で百済に常駐して百済での役職を持った人物の説話だが、長文なので解説を先に書いて原文と訳を後に記述しようと思う。
この時期の581年『三国史記』百済の威德王二十八年に「王遣使入隋朝貢隋高祖詔 拜王爲上開府儀同三司帶方郡公」、582年二十九年「春正月遣使入隋朝貢」、584年三十一年「冬十一月遣使入陳朝貢」と南朝と北朝に朝貢して隋からは開府儀同三司帶方郡公を得て、新羅は581年眞平王三年「春正月始置位和府如今吏部」、583年五年「春正月始置船府署大監・弟監各一員」、584年六年「春二月改元建福三月置調府令一員」と内政が充実し、日本としては行き詰ってしまっていて、日羅がまずは内政を固めるよう進言したように、かなりあがいていたようだ。
安閑二年に奪い取った国に「紀國經湍屯倉河邊屯倉」を置いたように天皇の配下の紀国と馬子の領地の国造を百済に派遣して、磐井が火・豊を奪って糟屋を盗られて俀国の領地の葦北国造の皇子が協力しないから朝廷に協力するように圧力をかけたようだ。
俀国は新羅と内通しているため、日羅は親倭の百済でも要注意人物で監視下に入っていて、秦王国日本と不和な百済は朝廷と協力しないように圧力をかけていたことは容易に想像でき、実際、日羅は朝廷に出仕しなかった。
しかし、出仕させざるを得なくなって百済に殺害されたが、当然葦北国造や主筋の大伴氏の事を考えて、百済の暗殺で新羅とは関係ないと主張しなければならなかったことをこの説話が物語っている。
この説話の状況は次のことを物語っていて、それは、磐井の乱が大伴・俀国対巨勢・物部・蘇我氏の戦いで親百済の文身国の蘇我氏は糟屋郡以東の筑紫、大漢国の豊・吉備を得て倭国を名乗り、扶桑国を破った自称日本の秦王国物部氏が播磨以東を得て日本府再興をもくろみ、親新羅の俀国は筑紫の西と筑後と火国を守ったと考えられ、「筑紫火君百濟本記云筑紫君兒火中君弟」と筑紫君の子、磐井の孫が火君・火中君と記述され、同じ磐井の子の東漢直は蘇我氏の配下である。
『日本書紀』慶長版は
「十二年秋七月丁酉朔詔曰属我先考天皇之世新羅滅內官家之國先考天皇謀復任那不果而崩不成其志是以朕當奉助神謀復興任那今在百濟火葦北國造阿利斯登子達率日羅賢而有勇故朕欲與其人相計乃遣紀國造押勝與吉備海部直羽嶋喚於百濟冬十月紀國造押勝等還自百濟復命於朝曰百濟國主奉惜日羅不肯聽上是歲復遣吉備海部羽嶋召日羅於百濟羽嶋既之百濟欲先私見日羅獨自向家門底俄而有家裏來韓婦用韓語言以汝之根入我根內即入家去羽嶋便覺其意隨後而入於是日羅迎來把手使坐於座密告之曰僕竊聞之百濟國主奉疑天朝奉遣臣後留而弗還所以奉惜不肯奉進冝宣勅時現嚴猛色催急召焉羽嶋乃依其計而召日羅於是百濟國
主怖畏天朝不敢違勅奉遣以日羅恩率德爾余怒哥奴知參官栬師德率次干德水手等若干人日羅等行到吉備兒嶋屯倉朝庭遣大伴糠手子連而慰勞焉復遣大夫等於難波館使訪日羅是時日羅被甲乗馬到門底下乃進廳前進退跪拜歎恨而曰於檜隈宮御㝢天皇之世我君大伴金村大連奉爲國家使於海表火葦北國造刑部靫部阿利斯登之子臣達率日羅聞天皇召恐畏來朝乃解其甲奉於天皇乃營館於阿斗桑市使住日羅供給隨欲復遣阿倍目臣物部贄子連大伴糠手子連而問國政於日羅日羅對言天皇所以治天下政要湏護養黎民何遽興兵翻將失滅故今令議者仕奉
朝列臣連二造下及百姓悉皆饒富令無所乏如此三年足食足兵以悅使民不憚水火同恤國難然後多造舩舶毎津列置使觀客人令生恐懼爾乃以能使使於百濟召其國王若不來者召其太佐平王子等來即自然心生欽伏後應問罪又奏言百濟人謀言有舩三百欲請筑紫若其實請冝陽賜予然則百濟欲新造國必先以女人小子載舩而至國家望於此時壹伎對馬多置伏兵候至而殺莫翻被詐毎於要害之所堅築壘塞矣於是恩率參官臨罷國時竊語德爾等言計吾過筑紫許汝等偸殺日羅者吾具白王當賜髙爵身及妻子垂榮於後德尓余奴皆聽許焉參官等遂發途於血鹿於是日羅自桑市村遷難波館德爾等晝夜相計將欲殺時日羅身光有如火焰由是德爾等恐而不殺遂於十二月晦候失光殺日羅更蘇生曰此是我駈使奴等所爲非新羅也言畢而死天皇詔贄子大連糠手子連令收葬於小郡西畔丘前以其妻子水手等居于石川於是大伴糠手子連議曰聚居一處恐生其變乃以妻子居于石川百濟村水手等居于石川大伴村收縛德爾等置於下百濟阿田村遣數大夫推問其事德爾等伏罪言信是恩率參官教使爲也僕等爲人之下不敢違矣由是下獄復命於朝庭乃遣使於葦北悉召日羅眷属賜德爾等任情(?決)罪是時葦北君等受而皆殺投弥賣嶋日羅移葬於葦北於後海畔者言恩率之舩被風沒海參官之舩漂泊津嶋乃始得歸」
【十二年の秋七月の丁酉が朔の日に、「私の死んだ父である天皇の時代に、新羅は、内の官家の国を滅ぼした。死んだ父である天皇が、任那の復興を考えたが、果すことなく崩じて、その志をなしとげられなかった。そこで、私が、神わざのような計略をお助けして、任那を復興したい。今、百済にいる、火の葦北の国造の阿利斯登の子の達率の日羅が、賢くて勇敢だ。それで、私は、その人と相談しようと思う」と詔勅した。それで紀の国造の押勝と吉備の海部の直の羽嶋とを派遣して、百済に呼び出した。冬十月に、紀の国造の押勝達は、百済から帰った。朝廷に「百済の国主は、日羅を惜しんで、命令を聞かなかった」と復命した。この歳に、また、吉備の海部の直の羽嶋を派遣して、日羅を百済に呼び出した。羽嶋は、すでに百済にいて、先に自分だけで日羅を見てみようと、一人で自分の考えで家の門の奥に向った。しばらくして、家の中から韓の婦人がやってきた。韓の言葉で、「あなたの(?心)根を、私の(?心)根の中に入れなさい」と言って、そのままその人の家に去った。羽嶋は、すぐにその気持ちを覚って、後について入った。そして、日羅が、迎えに来て、手を取って座らせた。声を押さえて「私は盗み聞きしたが、百済の国主は、朝廷を疑って、あなたを送り出してから、あなたを手元に止めて、あなたを惜しんで朝廷に送らなかったと。詔勅を宣下した時、容赦なく荒々しい顔つきですぐに召集に応じるよう促せ」と告げた。羽嶋は、それでその計略で、日羅を呼んだ。それで、百済の国主は、朝廷を畏れて、それ以上詔勅に異を唱えなかった。奉遣したのは、日羅と恩率の徳爾と余怒と奇奴知と參官の柁師の徳率と次干徳の水手達の、若干の人達だった。日羅達は、吉備の兒嶋の屯倉に着いた。朝庭は、大伴の糠手子の連を派遣して、慰労した。また、役所の長官達を難波の館に派遣して、日羅を訪問した。この時に、日羅は、鎧を着て、馬に乗って、門の下にやって来て、それで、面会の場所の前に進み出た。両ひざをついて拝礼する立ち居振る舞いで、嘆き怨んで、「桧隈の宮の御㝢天皇の時代に、私の君の大伴の金村の大連は、国家に仕える為に海の表への使者として、火の葦北の国造の刑部の靫部の阿利斯登の子の、私達率の日羅が、天皇の召集があったと聞いて、畏まって来朝した」と言った。それでその鎧を解いて、天皇に献上した。それで館を阿斗桑市に造って、日羅を住まわせ、希望どおりに兵糧を与えた。また、阿倍の目の臣と物部の贄子の連と大伴の糠手子の連を派遣して、国の政策を日羅に問いかけた。日羅が「天皇が天下を治の政策は、庶民を大事に養うことが一番大事だ。どうして急ごしらえで軍隊を集めると、国を失って滅ぶ。だから、今はよく議論させて朝廷に奉仕するために集まった臣連2つの造から百姓に至るまで、全員残らず豊かになって、足らないところが無いようにしなければならない。このようにして三年経てば、食糧も兵士も十分になったら、悦んで人民を使いなさい。水や火のことを気にしないで、皆同じように国の災難を心配する。そうした後に多くの船舶を造って、津々浦々に船を並べて置いて、客人に見せつけて、おそれかしこまるようにさせる。そうしてから、有能な使者を、百済に派遣して、その国王を呼び寄せなさい。もし来なかったら、その太佐平や王子達を呼び寄せなさい。そうすれば自然に心から謹んで屈服します。その後で罪を問うべきだ」と答えた。また「百済の人がもくろんで、『船が三百いる。筑紫に頼もうと思う』と言った。もしそれで本当に頼んできたら、見せかけに与えてください。そうしたら百済は、新に国を造ろうと思ったら、きっと先に女人と子供を、船に乗せてやってくる。朝廷は、この時になったら、壹伎と對馬に、たくさんの伏兵を置いて、やってくる兆しがあったら殺してください。裏切りに騙されないよう、いつも、戦略上、重要な場所に堅固な要塞を築きなさい」と奏上した。そこで、恩率と參官は、国に帰る時にこそこそと徳爾達に「私が筑紫を過ぎた頃に、お前たちがこっそりと日羅を殺せば、私は詳しく王に言いきっと高い地位を与えられるだろう。お前も妻子までも繁栄は後々まで続くだろう」と語った。徳爾と余奴は、皆聞き入れた。參官達は、とうとう血鹿に出発した。そこで、日羅は、桑市の村から、難波の館に遷った。徳爾達は、昼夜相談して、殺そうとした。その時、日羅は、身がひかり、焔のような物が見えた。これで、徳爾達は、恐れて殺さなかった。とうとう十二月の晦に、光らなくなったのを見て殺した。日羅は、息も絶え絶えに「こうなったのは私の早馬の使者達の仕業で新羅の仕業ではない」と言った。言い終わって死んだ。天皇は、贄子の大連と糠手子の連に詔勅して、小郡の西の畔の丘の前に収めて葬った。その妻子と水手達を、石川に居住させた。それで、大伴の糠手子の連が考えて「一ヶ所に集めておくと恐らく何かを起こす」と言った。それで妻子を、石川の百済村に居住させ、水手達を石川の大伴の村に居住させた。徳爾達を捕らえてしばり、下の百済の河田の村に置いた。長官数人を派遣して、この事件を調べさせた。徳爾達は、刑に服して「本当です。これは、恩率と參官が、教えたことです。私達は、彼らに仕えているので敢えて逆らえません」と言った。それで、牢獄に入れて、朝庭に復命した。それで使者を葦北に派遣して、残らず日羅の同族を呼んで、徳爾達を与えて、刑罰を決めさせた。この時に、葦北の君達は、受け取って皆殺にして、彌賣嶋に投げ棄てた。日羅を、葦北に移し葬った。後に、海の畔の者が「恩率の船は、強風にあって海で没した。參官の船は、津嶋に漂泊して、それでやっと帰ることが出来た」と言った。】とあり、標準陰暦と合致する。
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