『日本書紀』慶長版は
「十三年春二月癸巳朔庚子遣難波吉士木蓮子使於新羅遂之任那秋九月從百濟來鹿深臣有弥勒石像一軀佐伯連有佛像一軀是歲蘇我馬子宿祢請其佛像二軀乃遣鞍部村主司馬達等池邊直氷田使於四方訪覔修行者於是唯於播磨國得僧還俗者名髙麗惠便大臣乃以爲師令度司馬達等女嶋曰善信尼又度善信尼弟子二人其一漢人夜菩之女豊女名曰禪藏尼其二錦織壼之女石女名曰惠善尼馬子猶依佛法崇敬三尼乃以三尼付氷田直與達等令供衣食經營佛殿於宅東方安置弥勒石像屈請三尼大會設齋此時達等得佛舍利於齋食上以舍利獻於馬子宿祢馬子宿祢試以舍利置鐵質中振鐵鎚打其質與鎚悉被摧壞而舍利不可摧毀又投舍利於水舍利隨心所願浮沈於水由是馬子宿祢池邊氷田司馬達等保信佛法修行不懈馬子宿祢亦於石川宅修治佛殿佛法之初自茲而作」
【十三年の春二月の朔が癸巳の庚子の日に、難波の吉士の木蓮子を派遣し、新羅への使者として、任那へ行った。秋九月に、百済から来た鹿深の臣が彌勒の石像一躯を持ち佐伯の蓮が佛像一躯持っていた。この歳に、蘇我の馬子の宿禰が、その佛像二躯を求めて、鞍部の村主の司馬達等と池邊の直氷田を派遣して、全国へ使者として、修行者を訪ね求めた。そこで、一人播磨の国に、出家して僧となり、後にまたもとの俗人に戻った者を得た。名は高麗の惠便という。大臣は先生にした。司馬達等の娘の嶋に言い聞かせて尼僧にさせた。善信尼という。また、善信尼の弟子として二人を言い聞かせて尼僧にさせた。一人目は、漢人の夜菩の娘の豊女で、名を禅蔵尼という。二人目は、錦織の壷の娘の石女、名を惠善尼という。馬子だけが佛法に従って、三人の尼を崇敬した。それで三人の尼を、氷田の直と達等とに預けて、衣食を供給した。佛殿を邸宅の東の方に造り営んで、彌勒の石像を安置した。三人の尼が仏の出現を祈願し、大規模な説法の食事会を行った。この時に、達等は、佛の舎利(遺骨)を御膳の上で得た。それで舎利を、馬子の宿禰に献上した。馬子の宿禰は、ためしに舎利を、鉄の人斬り台の真ん中に置いて、鐵の鎚を振り降ろして打った。その人斬り台と鎚とが残らず砕け散った。それでも舍利は砕け散らなかった。また、舍利を水に投げ入れた。舍利は、思い通りに、水に浮いたり沈んだりした。このため、馬子の宿禰と池邊の氷田と司馬の達等は、佛法を深く信じて、修行を怠らなかった。馬子の宿禰は、また、石川の邸宅で、佛殿に手を加えてなおした。これが佛法が初めの起こりだ。】とあり、二月癸巳朔は1月30日で1月が小の月なら標準陰暦と合致する。
初めて仏法が起こるというのはナンセンスで、これ以前に僧どころか敏達天皇六年「遂安置於難波大別王寺」と大別王の屋敷には寺があり、欽明天皇十四年「果見樟木浮海玲瓏遂取而獻天皇命畫工造佛像二軀」と仏師が居て、欽明天皇十三年「大臣跪受而忻悦安置小墾田家懃脩出世業爲因淨捨向原家爲寺」と寺を建立し、欽明天皇十五年に「百濟遣下部杆率將軍三貴・・・僧曇惠等九人代僧道深等七人」と『日本書紀』では最初に百済から僧が来ているが高麗僧ではなく、『梁書』に「貴人第一者爲大對盧」と高句麗の官名を取り入れ、「齊永元元年其國有沙門慧」と既に僧が499年に存在し、応神天皇三七年「渡高麗國欲逹于呉」の高句麗と中国南朝へ行ったのは430年頃と証明し、扶桑国の時代から高麗僧がいた可能性がある。
この還俗した高麗僧は扶桑国に仕えていた僧と考えられる。
欽明天皇十三年「小墾田家懃修出世業爲因淨捨向原家爲寺」と前に稲目が出家したとあるが、稲目が出家した様子が無く、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の法皇がそれにふさわしいと書いたが、ここでの仏教受け入れこそ俀国の仏教受け入れの内容と考えられ、「法興元丗一年歳次辛巳十二月」と621年が31年に当たる法興王がいて元年は591年になり、この法興というのは古田氏が言う九州年号ではなく、法興帝を意味し、年号は鏡當年間で591年は端政3年で、敏達天皇が崩じた584年の翌年すなわち用明元年は勝照元年で改元されている。
すなわち、この年に俀国は仏教を受け入れ、593年に立太子していることから、年齢から考えても長男が13歳未満の30歳近い王自身が『隋書』に「跏趺坐」した、出家して591年に仏教を起こした皇帝を意味する法興法皇と帝号を改名して俀国を統治したということで、「無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字」と仏教が入る前は文字の普及はしていなかったが、10年程度で仏典を普及させて文字も普及したと、当然、漢の時代から漢字を木に刻んで縄で結んでいた文字を知っていたのだから紙に類する物が入れば普及のスピードが速いに決まっている。
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