2020年7月13日月曜日

最終兵器の目 敏達天皇 7

 『日本書紀』慶長版は

十四年春二月戊子朔壬寅蘇我大臣馬子宿祢起塔於大野丘北大會設齋即以達等所獲舍利藏塔柱頭辛亥蘇我大臣患疾問於卜者卜者對言祟於父時所祭佛神之心也大臣即遣子弟奏其占狀詔曰宜依卜者之言祭祠父神大臣奉詔禮拜石像乞延壽命是時國行疫疾民死者衆三月丁巳朔物部弓削守屋大連與中臣勝海大夫奏曰何故不肯用臣言自考天皇及於陛下疫疾流行國民可絶豈非專由蘇我臣之興行佛法歟詔曰灼然宜斷佛法丙戌物部弓削守屋大連自詣於寺踞坐胡床斫倒其塔縱火燔之幷焼佛像與佛殿既而取所焼餘佛像令棄難波堀江是日無雲風雨大連

被雨衣訶責馬子宿祢與從行法侶令生毀辱之心乃遣佐伯造御室喚馬子宿祢所供善信等尼由是馬子宿祢不敢違命惻愴啼泣喚出尼等付於御室有司便奪尼等三衣禁錮楚撻海石榴市亭天皇思建任那差坂田耳子王爲使属此之時天皇與大連率患於瘡故不果遣詔橘豊日皇子曰不可違背考天皇勅可勤修乎任那之政也又發瘡死者?(死・充)盈於國其患瘡者言身如被焼被打被摧啼泣而死老少竊相謂曰是焼佛像之罪矣夏六月馬子宿祢奏曰臣之疾病至今未愈不蒙三寶之力難可救治於是詔馬子宿祢曰汝可獨行佛法冝斷餘人乃以三尼還付馬子宿祢馬子宿祢受而歡悅嘆未曾有頂禮三尼新營精舍迎入供養秋八月乙酉朔巳亥天皇病弥留崩于大殿是時起殯宮於廣瀬馬子宿祢大臣佩刀而誄物部弓削守屋大連听然而咲曰如中獵箭之雀鳥焉次弓削守屋大連手脚搖震而誄(搖震戰慄也)馬子宿祢大臣咲曰可懸鈴矣由是二臣微生怨恨三輪君逆使隼人相距於殯庭穴穗部皇子欲取天下發憤稱曰何故事死王之庭弗事生王之所也

十四年の春二月の朔が戊子の壬寅の日に、蘇我の大臣の馬子の宿禰が、仏塔を大野の丘の北に建て、大規模な説法の食事会を行った。それで達等が以前に獲た舍利を、仏塔の柱の上に収めた。辛亥の日に、蘇我の大臣が、病気にかかった。占い師に問いかけたら、占い師は「父の時に祀った佛神への信心に崇った」と答えた。大臣は、それで子弟を派遣して、その占いの結果を奏上した。「占い師の言葉に従って、父の神を祭祠しなさい」と詔勅した。大臣は詔勅にそって、石像を礼拝し、寿命を延ばしたまえと願った。この時に、国に疫病が流行して、人民に多数の死者が出た。三月の丁巳が朔の日に、物部の弓削の守屋の大連と中臣の勝海の大夫とが、「何故、私の言うことを採用してもらえないのか。先代の天皇から陛下まで、疫病が流行して、国民が絶えてしまう。これは専ら蘇我の臣が佛法を興して行うからではいか」と奏上した。「神の罰なら、佛法を止めなさい」と詔勅した。丙戌の日に、物部の弓削の守屋の大連は、自ら寺に行って、胡床にしゃがみ込んで座り、その仏塔を削り倒して、火を着けて焼いた。一緒に佛像と佛殿とを焼いた。ほとんど焼けて形が残っていない佛像を取って、難波の堀江に棄てた。この日に、雲も無いのに風が吹いて雨が降った。大連は、雨具を付けた馬子の宿禰に従って仏法を行う僧侶を責め立ててそしり、はずかしめの気持ちを持たせた。それで佐伯の造の御堂を派遣して、馬子の宿禰に付き従う善信の尼達を呼び出した。それで、馬子の宿禰は、あえて命令を破らないで、いたみ嘆いて涙を流して、尼達を呼び出して、御室に預けた。役人は、尼達の法衣を奪って、とじこめて海石榴市の休憩所でむちで打った。天皇は、任那を建てようと思って、坂田の耳子の王を使者に派遣しようとした。この時に、天皇と大連とが、急にデキモノが出来たので派遣を止め、橘の豊日の皇子に、「父の天皇の詔勅に叛いてはならない。任那の治政につとめてまとめるべきだ」と詔勅した。またデキモノが流行して国に死人がいっぱい出た。そのデキモノの感染者は「体が焼かれて、殴られてこなごなにようだ」と言って、泣き叫んで死んだ。老も若きもひそひそと「これは、佛像を焼いた罰だ」と話した。夏六月に、馬子の宿禰は、「私の病はいまだに治りません。仏・法・僧の力が無くては救われて治ることが出来ません」と奏上した。そこで、馬子の宿禰に「お前だけ佛法を行いなさい。その他の者は止めろ」と詔勅した。それで三人の尼を、馬子の宿禰に返して従わせた。馬子の宿禰は、受け入れて大喜びした。今まで一度もなかった悦びと、頭を三人の尼の足に触れるほど拝んだ。新たに修行する者の僧院を建立して営み、尼を迎え入れて死者の冥福を祈った。秋八月の朔が乙酉の己亥の日に、天皇は、病が治らず、正殿で崩じた。この時に、殯の宮を廣瀬に起てた。馬子の宿禰の大臣は、刀を身に着けたまま弔辞を述べた。物部の弓削の守屋の大連は、大笑いして「矢で狩りをした雀だ」と言った。次に弓削の守屋の大連の、手足をブルブルふるわせて弔辞を述べた。馬子の宿禰の大臣は「鈴を掛けたらどうだ」と笑った。このため、二人の臣は、深いうらみの心が芽生えた。三輪の君の逆は、隼人を使って殯の庭から引き離した。穴穗部の皇子は、天下を盗ろうとし、気持ちをふるいたたせて「どうして死んだ王の朝廷に仕えて生きている王の所に仕えないのだ」と称えた。】とあり、三月丁巳朔は2月30日で2月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

蘇我倭国は前天皇から今に至るまで仏法を信じていたと述べているのだから、稲目が豊国に仏教を取り入れたことは確かなようで、病気の蔓延の責任を問うて、秦王国の朝廷を守ろうとしているのだろう。

『日本書紀』では神話に「火闌降命是隼人等始祖也」と隼人が火国の王の末裔と述べ、履中天皇前紀に「時有近習隼人曰刺領巾瑞齒別皇子陰喚刺領巾而誂之曰爲我殺皇子・・・以伺仲皇子入廁而刺殺」、清寧天皇元年に「葬大泊瀬天皇于丹比高鷲原陵于時隼人晝夜哀號陵側」、清寧天皇四年「蝦夷隼人並内附」と近習だった隼人、哀悼を述べる役だった隼人が、それよりも後に臣従したと矛盾している。

『舊事本紀』は「弟尊是以兄命苗裔諸隼人等至今不離天皇宮牆之傍伏吠狗而奉事者」と神話に記述し、清寧天皇元年記事とこの記事に整合し、 清寧天皇四年記事は倭国の記事、磐井が継体天皇二一年「於是磐井掩據火豐二國」と火国を侵略した時の記事の可能性があり、蝦夷も敏達天皇十年に「惟爾蝦夷者大足彦天皇之世合殺者斬應原者赦」と景行天皇のころに臣従したと述べている。

そして、 清寧天皇四年記事と同じ内容が欽明天皇元年に「蝦夷隼人並率衆歸附」と記述され、これも欽明・敏達記事は倭国・俀国記事の可能性が高く、蘇我倭国に臣従した内容なのだろう。

そうすると、蝦夷も同じことが考えられ、景行天皇四〇年の「今東國不安暴神多起亦蝦夷悉叛」と仁徳天皇五五年の「蝦夷叛之遣田道令撃則爲蝦夷所敗」の事件は同じ事件で、367年に発生し、応神天皇三年の「東蝦夷悉朝貢」が391年即位の天皇で393年に初めて蝦夷が尾張朝廷に朝貢したことを示しているようだ。


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