2020年7月17日金曜日

最終兵器の目 用明天皇2

 『日本書紀』慶長版は

夏五月穴穗部皇子欲姧炊屋姫皇后而自強入於殯宮寵臣三輪君逆乃喚兵衞重璅宮門拒而勿入穴穗部皇子問曰何人在此兵衞荅曰三輪君逆在焉七呼開門遂不聽入於是穴穗部皇子謂大臣與大連曰逆頻無禮矣於殯庭誄曰不荒朝庭淨如鏡面臣治平奉仕即是無禮方今天皇子弟多在兩大臣侍詎得恣情專言奉仕又余觀殯內拒不聽入自呼開門七𢌞不應願欲斬之兩大臣曰隨命於是穴穗部皇子陰謀王天下之事而口詐在於殺逆君遂與物部守屋大連率兵圍繞磐余池邊逆君知之隱於三諸之岳是日夜半潛自山出隱於後宮逆之同姓白堤與横山言逆君在處穴穗部皇子即遣守屋大連曰汝應往討逆君幷其二子大連遂率兵去蘇我馬子宿祢外聞斯計詣皇子所即逢門底將之大連所時諫曰王者不近刑人不可自往皇子不聽而行馬子宿祢即便隨去到於磐余而切諫之皇子乃從諫止仍於此處踞坐胡床待大連焉大連良久而至率衆報命曰斬逆等訖於是馬子宿祢惻然頽歎曰天下之亂不久矣大連聞而荅曰汝小臣之所不識也是年也太歲丙午

【夏五月に、穴穗部の皇子は、炊屋姫の皇后を自分のものにしようと考えて強引に殯の宮に入った。お気に入りの臣下の三輪の君の逆は、それで武官を呼んで、宮の門を小さく幾重にも守って侵入を許さなかった。穴穗部の皇子は「誰の命令でいる」と問いかけた。武官は「三輪の君の逆だ」と答た。七回「門を開け」と呼びかけたが、とうとう聞き入れなかった。そこで、穴穗部の皇子は、大臣と大連とに「逆は、本当に無礼だ。殯の庭で『朝庭を荒らさないで鏡のように浄め、私は、世の中を平穏に治め、私心を捨てて力を尽くす』と哀悼した。それなのにこんな無礼にあった。たしかに今のところ、天皇の子弟はたくさんいて、二人の大臣がついている。どうして自分の思いのままに天下を得て、国を治めようとするか。また、わたしが、殯の中をみようと思ったが、拒まれて聞き入れてもらえなかった。私自ら『門を開けろ』と七回叫んでも答えが無かった。斬り殺してやりたい」と言った。二人の大臣が「あなたのご随意に」と言った。そこで、穴穗部の皇子は、密かに王の天下にしようと考えて、嘘を言い立てて逆君を殺そうとしていた。それで物部の守屋の大連と、軍隊を率いて磐余の池邊を取り囲んだ。逆の君はそれを知って、三諸の岳に隱れた。この日の夜更けに、山から出て、後宮に潜入して隱れた。逆の同族の白堤と横山とが、逆の君の居場所を告げ口した。穴穗部の皇子は、それで守屋の大連を派遣して、「お前が行って、逆の君と一緒にその二人の子を討て」と言った。大連は軍を連れて討ちに行った。蘇我の馬子の宿禰は、別の離れた場所でこの計画を聞いて、皇子の所に行こうとし、途中の門を出たところで会った。丁度、大連の所に行こうとしていたのだ。その時に「王という者は罰を受ける人に近づいてはならない。のこのこ出かけて行ってはいけない」と諫めた。皇子は、聞き入れずに行った。馬子の宿禰は、それで一緒に行って磐余に着いて、心から諫めた。皇子は、それで諌言どうりに止めた。それで、その場の床の高い台に体を丸めてしゃがんで大連を待った。大連は、だいぶ経って帰った。軍隊を率いて「逆達を斬り終わりました」と復命した。そこで、馬子の宿禰は、あわれに思って心をいため「今に天下が乱れる」と倒れ込んで嘆いた。大連は、それを聞いて「お前のような身分の低い家臣の知った事か」と答えた。この年は太歳が丙午だった。】とある。

『舊事本紀』に用明天皇紀に「池邊雙槻宮物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」、「蘇我馬子宿祢大臣曰可隨詔而奉助」と記述し、「兩大臣」と2人の大臣を証明しており、同じ大臣でも「大連聞而荅曰汝小臣之所不識也」と地位が雲泥の差で、大臣は大王クラスで天皇に次ぐ皇太子も大王と呼ばれ、允恭天皇即位前紀に「願大王雖勞猶即天皇位」と大王が天皇に即位し、天皇が天皇に即位することはありえない。

『日本書紀』の「更名豐耳聰聖徳或名豐聰耳法大王」、『上宮聖徳法王帝説』でも「于時多至波奈大女郎悲哀嘆息白畏天之雖恐懐心難止使我大王与母王如期従遊」と聖徳太子も大王と呼ばれた。

大王クラスの人々の序列で馬子大臣を小臣と呼べるのは恐らく皇太子若しくは天皇の身内しか考えられず、守屋は皇后や天皇の兄弟や叔父に当たる人物であれば馬子大臣を小臣と呼べ、実際に馬子は守屋の義理の新参者の弟で、倭古の娘が守屋の妹で御井夫人の穴穗部間人皇女で婿が用明天皇、実際の用明天皇は『舊事本紀』の崇峻天皇で「物部連公布都姫夫人字御井夫人亦云石上夫人此夫人倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人」と御井夫人、夫が馬子で橘豊日、実際の用明天皇は敏達天皇の最後の2年間で天皇は物部目で皇后は豊御食炊屋姫、兄の橘豊日は先代馬子である。

すなわち、この両大臣というのは、二人の用明天皇を示し、この年は秦王国が倭国に奪われた朝廷を取り戻そうとしていたということで、豊御食炊屋姫が皇后になった時、倭国朝廷が始まったのであり、仁王元年623年がその年にあたり、甥の竹田皇子に馬子が『隅田八幡神社人物画像鏡』を「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿」と623年に送って、妹の豊御食炊屋姫を味方にしようとした。

だから、同じ大臣・皇太子と呼ばれながら、新参者の俀国から領地を奪って独立した倭国皇太子に対しての紀元前の辰国・神国・秦()国・日本と延々と引き継いできた歴史ある王朝の皇太子の言葉が「小臣」なのである。

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