2020年7月24日金曜日

最終兵器の目  崇峻天皇2

 

 今回は萬の犬の説話が長いので、文の訳は後にして、解説を先にする。

この戦いで分かる通り、守屋の領地は摂津で難波も含まれて、欽明天皇十三年「佛像流弃難波堀江復縱火於伽藍燒燼更無餘於是天無風雲忽炎大殿」、敏達天皇十四年「并燒佛像與佛殿既而取所燒餘佛像令棄難波堀江」と敏達天皇も馬子大臣も守屋もいた首都が難波で、敏達天皇十二年「遣大夫等於難波舘使訪日羅」と賓客を饗応するのも難波で、饗応は首都で行い、そして、敏達天皇六年「遂安置於難波大別王寺」と577年に首都難波にはすでに寺も存在し、仏師も552年に存在していた。

首都のど真ん中が守屋の領地であるのだから、皇太子に任命した父も難波に存在し、馬子たちはその場所を得て、四天王寺を建立して、守屋の配下の半分を四天王寺の下僕、あとの半分を寺の為の田の小作人にしたのである。

そして「蘇我大臣亦依本願於飛鳥地起法興寺」と625年に寺を建立し、613年の狭山池の樋管が出土した場所の上層にある窯の須恵器が法興寺の基礎の所で出土し(別の狭山窯の説有り)、この窯には隋様式の硯が出土し、法興寺が587年の建立ではない可能性が高く、625年着工なら狭山池の窯の須恵器を守屋の朝廷が使っていてその上に法興寺を建立した可能性が高い。

また、『舊事本紀』に「孫物部馬古連公目大連之子・・・物部連公麻侶馬古連公之子此連公淨御原朝御世天下万姓改定八色之日改連公賜物部朝臣姓同御世改賜石上朝臣姓」と天皇だった目の孫に石上姓が与えられているが、天武紀の賜姓に石上部造はあるが石上部や石上姓は無いのは、馬古の配下が石上部や石上造であった可能性が高い。

そして、実際には朱鳥元年次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事、『舊事本紀』に「弟娣生物部石上贄古連公」と石上姓が出現していて、贄子連も目大臣の子で、姓のない天皇から降格して石上姓が与えられた、すなわち、目天皇の子たちが皇位継承権を失った時が白鳳年号の終了と時期を同じくしている。

『日本書紀』慶長版は

秋七月蘇我馬子宿祢大臣勸諸皇子與群臣謀滅物部守屋大連泊瀬部皇子竹田皇子廐戸皇子難波皇子春日皇子蘇我馬子宿祢大臣紀臣()麻呂宿祢巨勢臣比良夫膳臣賀拖夫葛城臣烏那羅倶率軍旅進討大連大伴連嚙阿倍臣人平群臣神手坂本臣糠手春日臣倶率軍兵從志紀郡到澁河家大連親率子弟與奴軍築稻城而戰於是大連昇衣揩朴枝間臨射如雨其軍強盛塡家溢野皇子等軍與群臣衆怯弱恐怖三𢌞却還是時廐戸皇子束髮於額而隨軍後自?()度曰將無見敗非願難成乃斮取白膠木疾作四天王像置於頂髮而發誓言今若使我勝敵必當奉爲護世四王起立寺塔蘇我馬子大臣又發誓言凢諸天王大神王等助衞於我使獲利益願當奉爲諸天與大神王起立寺塔流通三寶誓已嚴種種兵而進討伐爰有迹見首赤檮射墮大連於枝下而誅大連幷其子等由是大連之軍忽然自敗合軍悉被皁衣馳獦廣瀬勾原而散是役大連兒息與眷属或有逃匿葦原改姓換名者或逃亡不知所向者時人相謂曰蘇我大臣之妻是物部守屋大連之妹也大臣妄用妻計而殺大連矣平亂之後於攝津國造四天王寺分大連奴半與宅爲大寺奴田庄以田一萬頃賜迹見首赤檮蘇我大臣亦依本願於飛鳥地起法興寺物部守屋大連資人捕鳥部萬將一百人守難波宅而聞大連滅騎馬夜逃向茅渟縣有真香邑仍過婦宅而遂匿山朝庭議曰万懷逆心故隱此山中早須滅族可不怠歟万衣裳幣垢形色憔悴持弓帶剱獨自出來有司遣數百衞士圍萬々即驚匿篁藂以繩繋竹引動令他惑己所入衞士等被詐指搖竹馳言萬在此万即發箭一無不中衞士等恐不敢近万便弛弓挾腋向山走去衞士等即夾河追射皆不能中於是有一衞士疾馳先万而伏河側擬射中膝萬即拔箭張弓發箭伏地而?(號)曰萬爲天皇楯將效其勇而不推問翻致逼迫於此窮矣

可共語者來願聞殺虜之際衞士等競馳射万万便拂捍飛矢殺三十餘人仍以持剱三截其弓還屈其剱投河水裏別以刀子刺頸死焉河內國司以萬死狀牒上朝庭朝庭下苻稱斬之八段散梟八國河內國司即依苻旨臨斬梟時雷鳴大雨爰有万養白犬俯仰𢌞吠於其屍側遂嚙舉頭收置古冢横臥枕側飢死於前河內國司尤異其犬牒上朝庭朝庭哀不忍聽下苻稱曰此犬世所希聞可觀於後湏使万族作墓而葬由是万族雙起墓於有眞香邑葬万與犬焉河內國言於餌香川原有被斬人計將數百頭身既爛姓宇難知但以衣色收取其身者爰有櫻井田部連膽渟所養之犬嚙續身頭伏側

固守使收已至乃起行之八月癸卯朔甲辰炊屋姫尊與群臣勸進天皇即天皇之位以蘇我馬子宿祢爲大臣如故卿大夫之位亦如故是月宮於倉梯

【秋七月に、蘇我の馬子の宿禰の大臣は、諸々の皇子と群臣とに、物部の守屋の大連を滅ぼそうと言った。泊瀬部の皇子と竹田の皇子と廐戸の皇子と難波の皇子と春日の皇子と蘇我の馬子の宿禰の大臣と紀の男麻呂の宿禰と巨勢の臣の比良夫と膳の臣の賀頴夫と葛城の臣の烏那羅が、共に軍勢を率いて、進撃して大連を討った。大伴の連の噛と阿倍の臣の人と平群の臣の神手と坂本の臣の糠手と春日の臣が一緒に軍隊を率いて、志紀の郡から、渋河の家についた。大連は、自ら子弟と下僕の兵士を率いて、稲城を築いて戦った。そこで、大連は、衣揩のほおのきの枝の間に昇って、見下ろして雨のように矢を射た。その兵は、強く勢いがあり、家をうずめ野に溢れかえっていた。皇子達の兵と群臣の軍隊とは、臆病で恐れおののいて、三回も退却した。この時に、廐戸の皇子は、額のところで髪を束ねて、兵の後をついて回った。自分の考えでみんなの気持を考えて「なんとか負けないようにしたい。願をかけないと成功できない」と言った。それでぬりでを切り取って、すぐに四天王の像を造って、頭の上に置いて、「今、もし私を敵に勝たしてくれたなら、きっと世の中を守る四天王の為に、寺塔を建立する」と言った。蘇我の馬子の大臣は、

やはり「全ての諸天王と大神王達よ、どうか私を助けてそして守って、利益を獲たなら、きっと諸天と大神王の為に、寺塔を建立して、三宝を普及する」と誓いをたてた。誓い終わって其々の兵に命令して、進軍させて討伐した。そこで迹見の首の赤梼がいて、大連を枝の下に射落して、大連と一緒にその子達を誅殺した。このため、大連の軍隊は、にわかに自滅していった。兵士が一緒になって残らず黒い衣を着て(見つかりにくいように)、廣瀬の勾原で狩りをするように駆けまわって散り散りになった。この闘いで、大連の子息と血縁は、或る者は葦原を逃げまどって隠れ、姓を改めたり名を換える者も、あるいは逃げ亡せて消息不明の者もいた。当時の人は、「蘇我の大臣の妻は、物部の守屋の大連の妹だ。大臣は、つつしみもなく妻の計略を用いて、大連を殺した」と言い合った。乱を平定した後で、摂津国に、四天王寺を建立した。大連の下僕の半分と邸宅を分けて、大寺の下僕と田地にした。田を一萬頃(1001万町?10Km四方:身頃は30㎝四方約0.1㎡、32m四方)を、迹見の首の赤梼に与えた。蘇我の大臣は、また願掛けのとおりに、飛鳥の地に、法興寺を建立した。物部の守屋の大連の下級官職の捕鳥部の萬が、百人を纏めて、難波の邸宅を守っていた。それで大連が滅んだと聞いて、馬で夜逃げして、茅渟の縣の有眞香邑に向かった。それで婦人の家をとおり過ぎて、山中に隠れた。朝庭は相談して「萬は、反逆を考えているから、山の中に隱れた。すぐに一族郎党を滅ぼせ。ぼさぼさするな」と言った。萬の着衣はぼろぼろになって垢まみれで、顔色は憔悴しきっていて、弓を持ち剱を帯びて、一人自分から出てきた。官僚は、数百の衞士を派遣して萬を囲んだ。萬は、それに驚いてたけやぶに隠れてしまった。縄で竹を繋ぎ、引き動かして出入りするのが他人か自分かを解らなくした。衞士達は、だまされて、揺れる竹を目指して走って近づき「萬は、ここにいる」と言った。萬は、そこに箭を放って百発百中だった。衞士達は、おそれて近づこうとしなかった。萬は、それで弓をたゆませて腋に挾み、山に向って走り去った。衞士達は、それで河を挟んで追いかけて矢を射た。誰も当てることが出来なかった。ここに、一人の衞士がいて、素早く走って萬を待ち伏せた。それで川岸に伏せて、贋の矢を膝に命中させた。萬は、箭を拔いた。弓を張って矢を放った。地面に伏せて「萬は天皇の楯として、その勇ましく尽力したのに、取り調べない。それなのに差し迫ってこのように身うごきができなくなった。さしで話そう。殺されたいのか捕らわれたいのか聞かせろ」と叫んだ。衞士達は、競い合うように走り回って萬を射た。萬は、すぐに飛ぶ矢を払って防ぎ、三十余人を殺した。なおも、持った剱で、三つ弓を叩ききった。また、その剱をひん曲げて、河の中に投げた。別の刀で、頚を刺して死んだ。河内の国司は、萬の死に様を、朝庭に文書で奏上した。朝庭は、「八つ切りにして、八つの国にばらしてさらせ」と文書を下した。河内の国司は、それで命令書どおりに、斬ってさらす時になって、雷が鳴って大雨が降った。ここに萬の養っていた白犬がいた。俯せで上目でその屍の側を回って吠えた。頭を咥え挙げて、先祖代々の冢に收めるように置いた。冢の横の頭側にうつぶせにして、冢の前で飢え死んだ。河内の国司は、その犬が際立ってすぐれていると、朝庭に文書で奏上した。朝庭は、悲しさがこらえきれず聞き入れた。「この犬は、世にまれなことをした。後々まで語り継げ。萬の一族に、墓を作って葬らせよ」と文書で命じて褒め称えた。これで、萬の一族は、墓を有眞香の邑に2つ並べて作り、萬と犬とを葬った。河内の国司は「餌香の川原で、斬られた人がいる。計算すると丁度数百だ。頭や身は既に爛れて、誰なのか見分けがつかない。ただ、衣服の色で、屍骸を修め分けた。ここに桜井の田部の連の膽渟が養っていた犬がいた。遺骸を咥え続けて、横に伏せて身動きせず守った。自分の主を運ぶとき、起き上がって付いて行った」と言った。八月の朔が癸卯の甲辰の日に、炊屋姫の尊と群臣とが、天皇を後押しして、天皇に即位させた。蘇我の馬子の宿禰を大臣にしたのは以前のとおりだ。卿や大夫の位もまた以前のとおりだ。この月に、倉梯に宮を置いた。】とあり、標準陰暦と合致する。


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