2020年7月22日水曜日

最終兵器の目  崇峻天皇1

    『日本書紀』慶長版は

泊瀬部天皇天國排開廣庭天皇第十二子也母曰小姉君二年夏四月橘豊日天皇崩五月物部大連軍衆三度驚駭大連元欲去餘皇子等而立穴穗部皇子爲天皇及至於今望因遊獵而謀替立密使人於穴穗部皇子曰願與皇子將馳獵於淡路謀泄六月甲辰朔庚戌蘇我馬子宿祢等奉炊屋姫尊詔佐伯連丹經手土師連磐村的臣真嚙曰汝等嚴兵速往誅殺穴穗部皇子與宅部皇子是日夜半佐伯連丹經手等圍穴穗部皇子宮於是衞士先登樓上擊穴穗部皇子肩皇子落於樓下走入偏室衞士等舉燭而誅辛亥誅宅部皇子善穴穗部皇子故誅甲子善信阿尼等謂大臣曰出家之途以戒爲本願向百濟學受戒法是月百濟調使來朝大臣謂使人曰率此尼等將渡汝國令學戒法了時發遣使人荅曰臣等歸蕃先噵國主而後發遣久不遲也

【泊瀬部天皇は、天國排開廣庭の天皇の弟で十二番目の子だ。母を小姉の君という。稻目の宿禰の娘で、すでに前の巻に見える。二年の夏四月に、橘の豊日の天皇が崩じた。五月に、物部の大連の軍隊が三度も攻め、非常に驚いていた。大連は、元々、余有る皇子等を見捨てて、穴穗部の皇子を天皇にしようとした。急に今になって、狩りをすると理由をつけて、天皇候補を取り替えて擁立しようと思い、密かに人を穴穗部の皇子のもとに使者を送って、「出来たら皇子と、淡路で狩りをしよう」と言った。謀略はもれた。六月の朔が甲辰の庚戌の日に、蘇我の馬子の宿禰達が、炊屋姫の尊を後ろ盾に、佐伯の連の丹經手と土師の連の磐村と的の臣の眞噛に「お前たち、軍を整えてすぐにいって、穴穗部の皇子と宅部の皇子とを誅殺しなさい」と詔勅した。この日の夜更けに、佐伯の連の丹經手達は、穴穗部の皇子の宮を圍んだ。そこで、衛士がまず物見やぐらに登って、穴穗部の皇子の肩を撃った。皇子は、物見やぐらの下に落ちて、傍の家に走って入った。衞士達は、火をつけて誅殺した。六月の辛亥の日に、宅部の皇子を誅殺した。穴穗部の皇子と仲がよかったので誅殺した。甲子の日に、善信の阿尼達が、大臣に「出家して修行のあいだは、戒律を守ることが根本だ。出来ましたら、百済に行って、戒律の法を学んで受け入れたい」と言った。この月に、百済の年貢の使者が来朝した。大臣は、使者に、「この尼達を連れて、お前の国に渡って、戒律の法を学ばせなさい。用が済んだら出発させなさい」と言った。使者は「私達は、蕃に帰って、先づ国主に手引きします。その後で派遣しても遅くはない」と答えた。】とあり、標準陰暦と合致する。

守屋が穴穗部皇子を天皇にしようとしたのは、泊瀬部皇子の妻が大伴氏の娘に入り婿し、物部目の伯父倭古が穴穗部天皇だったのだからで、物部目の兄弟では若過ぎて皇位どころではないと考えられ、長男守屋が父物部倭古を守るために戦うのは当然である。

敵は守屋の「蘇我大臣之妻是物部守屋大連之妹也」と妹御井夫人を妻にする初代馬子で、『舊事本紀』に「物部守屋大連・・・妹物部連公布都姫夫人字御井夫人亦云石上夫人此夫人倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人」と御井夫人が泊瀬部崇峻天皇の後ろ盾のもう一人の物部家の用明天皇(敏達天皇の最後の2年間)の皇后および推古天皇で、馬子が皇太子である。

そして、『古事記』に「長谷部若雀天皇坐倉椅柴垣宮治天下肆歳」と『日本書紀』では5年で異なっているが、若雀は初代馬子の天皇の名乗った名前なのだろうからで、崇峻4年に崩じていて、崇峻四年「夏四月壬子朔甲子葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也」と橘豊日の陵の「語田天皇於磯長陵」と自分の陵に埋葬され、物部目である敏達天皇の陵墓は「磐余池上陵」に葬られている。

御井夫人はおそらく即位後すぐに『舊事本紀』「弟娣生物部石上贄古連公此連公異母妹御井夫人爲妻生四兒小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮」と4人の子を得たのだから泊瀬部を受け継いだ贄子が皇太子になり、推古天皇のもう一人の皇太子である。

そして『舊事本紀』に「孫物部鎌束連公贄子大連之子・・・妹物部鎌媛大刀自連公此連公小治田豐浦宮御宇天皇御世爲參政奉齋神宮宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」と贄子大連の子の鎌媛大刀自が摂政の2代目馬子の「廐戸皇子豐耳聰」の嶋の妻となって、『船王後墓誌』に「生於乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲勅賜官位大仁品為第三殞亡於阿須迦天皇之末 歳次辛丑」と譯語田・豊浦・飛鳥と宮が変わったが、崇峻四年「夏四月壬子朔甲子葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也」の譯語田天皇は初代馬子で628年だった。

そして、推古天皇即位前紀「皇后即天皇位於豐浦宮」と629年に豐浦宮に遷都し、推古天皇十一年に「遷于小墾田宮」と記述され、629年即位の推古11年は639年に当たり、翌640年に命長に改元されているので首都が変わったと考えてもよい。

641年が飛鳥宮末年ということで、『舊事本紀』に「物部恵佐古連公・・・此連公小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」と恵佐古も小治田豐浦が連続してあったことを示し、630年頃に蝦夷が生まれたので豊浦大臣と呼ばれたことを示し、「阿須迦天皇之末」と天皇が崩じ、年号は変らないのだから天皇では無い人物が改元の権限があることを示し、623年の仁王元年から続く、すなわち用明天皇の皇后の穴穗部間人皇女すなわち馬子の妻の御井夫人が元号命名者と考えられる。

御井夫人のような存在が王朝交代の時に存在し、前王朝の皇女が他王朝の皇后となり、その皇子達が皇位を継承し、御井夫人のような存在が王朝交代をスムーズになし得た。

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